【本編】E.A.G.R.S.H. その8 | 魔人の記

魔人の記

ここに記された物語はすべてフィクションであり、登場する団体・人物などの名称はすべて架空のものです。オリジナル小説の著作権は、著者である「びー」に帰属します。マナーなきAI学習は禁止です。

E.A.G.R.S.H. その8

机の上には、雑然と置かれた本や筆記用具。
食べかけのパンなどもある。

机の下には、寝袋。
その中にいるのは、口を開けて寝ている茜。

「…」

そんな彼女を、ナオトは見下ろしていた。
窓からは朝日が差し込んでいたが、彼の体が影になって茜の顔にはかかっていない。

音を立てないように、ナオトはゆっくりとしゃがむ。
影の方向を気にしながら、少しだけ…寝ている彼女に近づく。

だが、手の届くほどには近づかなかった。
離れた場所から、彼はただじっと彼女の寝顔を見つめていた。

「…ん…?」

彼の気配に気づいたのか、茜が目を開ける。
すぐそばにナオトがいるのに気づき、へらっと笑った。

「おはよ、八神くん…もう朝?」

「はい。資料、作ってきたんですけど…」

「ありがと。ちょっと待ってね、起きるから」

そう言って、茜は寝袋から出る。
シャツとジーンズというラフな姿で出てきた彼女は、そのまま一度部屋を出ていった。

しばらくすると、歯ブラシをくわえたまま戻ってくる。

「ふぉふぇんへー、ふぉんはふぁおふぃふぇふぁっふぇ」

「あの…歯磨き終わってからにしませんか」

「ふぉお? ふぁーふぁふぃいふふぁふぇふふぁ」

「はい」

無理にしゃべる茜に、ナオトは苦笑する。
彼女は頭をガリガリとかきながら、また部屋を出ていった。

「…」

その間にナオトは部屋を見回す。
他にも机はあるのだが、この部屋には今、彼と彼女しかいない。

ここは週刊ディアマンテの編集部だった。
誰もが帰ってしまった中で、茜だけが残って仕事をやっていたようだ。

「ふー…ごめんね、おまたせ!」

歯磨きと洗顔をすませた茜が、元気に戻ってくる。
そんな彼女に向かって、ナオトはファイルとビニール袋を差し出した。

茜は左右の手でそれらを受け取る。

「こっちが資料で…こっちは?」

「朝ご飯です。朝食べないと、頭ボーッとしちゃいますから」

「買ってきてくれたの? ごめんねー、いくらだった?」

「…そんなのいいです」

「よかァないわよ、あたしの方がおねーさんなんだし。あっ、でも今ちょうど金欠だったなあ…」

「だからいいですって」

「そんなわけにはいかないの。そうね…あさって給料入るし、その時に返すってことでいい?」

「…は、はい」

「あっ、でもそれじゃ2日分の利息が発生するわよね…じゃあその分は、今度デートするってことで、どう?」

「えっ…」

茜の言葉に、ナオトの顔は赤くなる。
だが彼女はそれに気づいていないらしく、苦笑しながらこう続けた。

「あっ、ごめんねー? あたしみたいな色気のない女と、デートなんかしたくないよね?」

「いえ!」

「わお」

突然の大声に、茜は驚いてナオトを見る。
彼も、自分がやたら大きな声を出してしまったことに気づき、慌てて下を向いた。

「い、いえ…そんなこと、ない…です」

「そう? そう言ってくれると嬉しいけど…八神くんって大学生だったよね?」

「はい」

「じゃあ、あたしより若くてかわいい女子大生が、すぐ近くにいっぱいいるわけだ」

「そんなの、関係ありません」

「…そう? そう言ってくれると嬉しいけど…」

茜は少し不思議そうな顔で、下を向いたナオトの顔をのぞき込む。
その後で小さくため息をついた。

「ま、いっか。せっかく買ってきてくれたんだし、一緒に食べよ」

「…はい」

彼女に朝食を誘われ、やっとナオトは顔を上げることができた。
ふたりは誰もいない編集部で、サンドイッチを食べた。

その後で、茜はポーチから化粧道具一式を出し、メイクを始める。
机の上にあった小さな置き鏡を引き寄せて、それをのぞき込みながら忙しく手を動かし始めた。

「…」

ナオトは、そんな彼女の横顔を見ている。
すっぴんだった彼女の顔が、みるみるうちに艶やかになっていく。

鏡を見たままだったが、彼女は彼の視線に気づいたようだ。
すまなそうな顔で彼にこう言った。

「…八神くん、ホントごめんね」

「えっ?」

「すっぴんとか寝顔とか、化粧してるとことか…なんか、女として見せちゃいけないトコばっか見せちゃってごめん」

「…いえ、気にしないでください」

「いやー、気にしなきゃいけないなって最近思ってるんだあたし。だけどどーにもね…八神くんといると安心しちゃうっていうか」

「あはは…」

「女としてはそれじゃいけないんだけどねえ…まあ、あたし女っぽくないし、どっちかといえばおっさんだけどさ」

「そんなこと!」

「うわあ」

突然の大声に、茜は再度驚く。
ナオトはまた「すいません」と謝りつつ、続けてこう言った。

「おっさんなんかじゃないです…全然違います」

「…ありがと。優しいのね、八神くん」

「いえ、そんなことないです…僕はただ」

「…ん?」

「ただ…」

言いかけて、消え入る言葉。
それが気になったのか、ほぼメイクが終わった茜がナオトの方を向いた。

それと同時にナオトの口が動く。
その動きは、こんな言葉を紡ぎ出した。

「あなたのことが、好きなんです」

「…えっ…?」

茜の動きが止まる。
驚きの表情が、彼女の顔を彩っている。

ナオトはそんな彼女の手をつかみ、そっと引き寄せた。
それに合わせ、自分からも近づいていく。

「んっ…」

直後、ふたりの唇が重なっていた。
この時、茜は一度まばたきをした。

もう、動けるようにはなっていた。

「…」

だが、彼女はただじっとしている。
やがて、唇が重なるだけのキスは終わりを告げた。

彼女からゆっくりと離れたナオトは、じっと瞳を見つめてきた。
それまですぐに下を向いていたとは思えないほど、はっきりした言葉を彼女に言う。

「キスしたこと…僕は謝りません」

「…」

「だから、茜さんも謝らないでください」

「……八神くん…」

「それだけです。じゃ、僕は一度帰りますね…まだ作らなきゃいけない資料、あるんで」

「…」

ナオトは部屋を出ていった。
茜は動かなかった。

彼女が彼の手をつかむことはなかった。
ただ、唇の熱さを感じるばかりだった。


それからは、特に何もなかった。
ただあのキスだけが記憶から抜け落ちたような形で、ふたりはこれまでと変わらずに仕事をした。

ナオトは、週刊ディアマンテが所属する出版社に先輩を訪ね、そのコネで茜のアシスタントになっていた。
その身分が変わらなかったということは、茜が誰にも、何も言わなかったということだった。

そしてある日…

「高校の爆弾事件?」

「うん。詳しいことを知ってるっていう子がいるらしいから、F市に行ってくるわ。その間はちょっとお休みしてて」

「子、っていうことは子ども…なんですか?」

「子どもっていうほど子どもじゃないかな。高校生みたいだし」

「現場の高校に通う子ってわけですか」

「…それが、ちょっと違うみたいなのよね。まあ、詳しいことはまた帰ってから話すわ。まとめとか頼むと思うから、その時はまたよろしくね」

「はい…わかりました」

ナオトがそう答えると、茜は「じゃね」と笑顔で言って編集部を出ていった。
だがよほど慌てていたのか、メモを1枚落としてしまう。

「あの、松井さん…」

声をかけるが、茜はもういない。
ナオトは急いでそれを拾い、彼女を追いかけた。

エレベータに到着すると、ちょうど彼女が乗った直後らしく、動き出したばかりだった。
ナオトは非常階段から1階へと走り下り、エレベータ前で彼女を待つ。

その間に、息を整えながらメモをちらりと見た。
そこには殴り書きでこう記されている。


『椎葉高校の真田 せーじ(漢字わかんない)』


「真田 征司…!?」

思わずナオトは声をあげた。
それとほぼ同時にエレベータのドアが開く。

中から、驚いた表情の茜が降りてきた。

「八神くん? どしたの?」

「あ、メモ落としてたんで、届けに」

「あ…! ごめーん、あたしったらドジで。ありがと!」

茜は笑顔でナオトに礼を言い、取材へと向かった。
その背中を見送りながら、ナオトは小さくこうつぶやく。

「あいつが…あいつがまだ、生きてたなんて…!」

うっすらと顔に現れる憎悪。
そして彼は財布の中身を確認し、茜を追う形でF市にやってくるのだった…


(…あれ?)

ここで征司は目が覚めた。
彼は夢を見ていた。

だがただの夢ではない。
それは、生体組織の組み込みによって発生する、「前の持ち主の過去」だった。

しかし征司は、今回見た過去が前2回とは違うのに気がつく。

(福原さんと城戸の時は…確かY.N.からのコンタクトがあって、それから刺客になったんじゃなかったっけ…?)

それにひきかえ、今回見たナオトの過去は、既にナオトが「憎悪の対象」として征司のことを知っているようだった。

「あいつがまだ生きていたなんて」という言葉は、自分より前の刺客にまだやられていないことの驚きを示しているともとれる。
だがだからといって、それがY.N.側からのコンタクトがない理由にはならない。

(…特別だってことなのか? 前のふたりとは違うと…確かに名前も気になるんだ)

征司はナオトの過去から、彼の名字を知るに至った。
それをアルファベットになおすとこうなる。


Yagami
Naoto


(つまりはY.N.だ…イニシャルの場合、名字と名前が逆ってこともあるけど、一応当てはまってしまうんだよな…!)

そう考えると、ナオトが福原 耕作と城戸 英一をそれぞれ刺客として送り込んできた、という線もなくはない。
ただそうなると、おかしな部分が出てくることも確かだった。

(オレが調べたところ、刺客は全部で12人いるはずなんだ…福原さんが12で、城戸が11だった。そして八神 ナオトは10…12人中3番目なんていう早い段階で、刺客全部のボスみたいなのが出てくるだろうか?)

肯定と否定、どちらがしっくりくるかといえば、否定の方がしっくりくる。
そのため征司は、ナオトに関する謎を心に持たされたままとなった。

さらにもうひとつ。
彼には無視できない過去がある。

(あいつ…松井さんのこと、好きだったのか)

目の前で見たわけではないが、夢という形で鮮明に見せられたキスシーン。
それは征司の心に痛みを与えたが、なぜか怒りは湧かなかった。

それどころか今は、頭の中に冷たい感覚がある。
その感覚は、彼の心に寒ささえ感じさせた。

(あいつと松井さんのやり取り、どっかで見たぞ…オレの夢だ。松井さんにからかわれて恥ずかしくて、でも悪い気はしなくて…全部一緒だ)

その「全部一緒」という感覚が、征司の心をやたら寒くさせる。
茜に対する執着が、一気に冷えきっていくのを感じていた。

だからこそ彼は今、冷静に考えることができている。
窓ガラスの向こうに映る真っ黒な壁を眺めながら、ナオトの言葉について考えていた。

(あいつは…オレが何かものすごく悪いことをしたと言ってた。『選択』がどうとか…だけどその中身はあの夢の中には出てこなかった)

ナオトにとって、最も幸せな時だったのかもしれないが、それが征司の中にある疑問を解くことはない。
彼の言葉を思い出しながら、征司は思索を続ける。

やがてそれは、彼の今際に及んだ。
ナオトは征司の体に自らの「第3の手」を差し込んだかと思うと、突然叫び出して自らの「手」に食われてしまったのだ。

(あの時はやられたと思った…本当にマズいと思った。だけどアイツはなぜか自滅したんだ…自分で自分を刺してまでオレを倒そうとしたのに、ものすごい覚悟を持ってたのに…)

あれだけ征司に対して憎悪を燃やしながら、負けそうになったからといって自殺するとも思えない。
では一体何が起こったのか…自らの体内で起こったことでありながら、征司には何もわからなかった。

ちょうどそんな時、地下鉄のアナウンスが聞こえてくる。

”間もなく~、千代県庁口~、千代県庁口~、千鳥橋病院へは、この駅でお降りください…”

(あっ、もう着くんだな。もしかしたら乗り過ごしたかもって思ってたけど)

学校へ向かう西鉄電車と、それとは逆方向の地下鉄両方の始発である貝塚駅から、千鳥橋病院がある千代県庁口までは駅5つ分ある。
ナオトの過去は、その間に夢として見ることができた。

(まあ、夢の中じゃ時間の感覚なんてあってないようなもんだからな…それにしても、ヴァージャ出てこないな?)

地下鉄が速度を緩めるのに合わせ、立ち上がりながら征司はそんなことを思う。
だが組み込みで疲れたのだろうと、あまり気にしないようにした。

今はヴァージャのことよりも、この先にある出会いの方が気になっているのだ。

(ルライムン…だっけか。電話してきたおじいさん…あいつが『ジジイ』って言ってた人。留置場のカギを能力で開けてくれた人…)

小さな中年男たちを征司のもとへ送り込み、八方塞がりだった彼を脱出させてくれたというルライムン。
刺客ではあるが、ナオトの話では数少ない味方であるという。

(話をしようじゃないか、みたいなことを言ってた…どこまで教えてもらえるのかわからないけど、訊けるだけのことを訊いてみよう)

駅のホームに停車した地下鉄から降り、階段を上がっていく。
改札を通り抜け、さらに階段を上がって征司は駅の外へ出ようとする。

その時ふと、彼は組み込みに関するあることを思い出した。

(そういえば、ロバとか狼とか…あの『悪魔』たちの姿を見てないぞ? 組み込みっていえば、そもそもあの『悪魔』たちがヴァージャの一部になる儀式みたいなもんじゃなかったか…?)

様々なことが、これまでとは違う。
さらに外への階段を上がりきった時、それまで持っていた疑問さえも取り落としてしまう。

「え…!?」

思わず声が出た。
彼は空を見上げていた。

空といえば、晴れていれば青く、曇っていれば白から灰色のどれかに色が変わる。
太陽との角度差によっては、赤くなることもある。

しかし。

(な、なんだ…? この、血のような空の色は…!)

朱色とワインレッドを混ぜたような、生々しい赤。
空はそんな色に染め上げられていた。

しばらく前のナオトとの戦いで、空の色などは気にならなかった。
であるなら、いつもと変わらない色であったろう。

だが今、その色は失われていた。
その衝撃は、「病院へ向かう」という今の目的を征司の中から吹き飛ばすほどであり、それを思い出すまで5分という時間を要するのだった。


>L.R.A.I.M.N. その1へ続く