「広島発ヒロインアクションチャンピオンまつり」用に撮り下ろされた作品『ストロベリークライム』に“プロレス女子”が登場するんだけれど、稲葉監督がスタンハンセンの「ウィ―」を決めポーズにリクエストしたところ、演じる吉原麻貴さんから逆に“棚橋ポーズ”を希望されたので、結局そこに収まった云々のFB記事を拝見した。確かに最近の若い子はハンセンなんて知らないだろうな、って変に納得したり、吉原さんはかなりのプロレスファンだと思うと、なんだかうれしくなったり……(;^_^A) 

 

 そんなわけで、突如プロレスネタです。それも昭和のかなりコアな話(;^_^A)

 

 竹内宏介氏著のムック本「プロレス醜聞(スキャンダル)100連発!! 」の中で、1968年1月に日大講堂で行われたグレート草津とルー・テーズとのTWWA世界ヘビー級選手権試合のことが触れられている。この試合で凱旋間もない挑戦者・草津は、同試合を中継したTBSの期待も空しく、王者・テーズのバックドロップ一閃によって失神し、タイトル奪取はおろか全国ネットで醜態を晒すことになってしまった。俗に言う「草津バックドロップ失神事件」である。竹内氏はこの試合と、豊登が興した東京プロレスの旗揚げ戦における、アントニオ猪木とジョニー・バレンタインとの火の出るような好試合とを比較して、もし草津が猪木のように颯爽とした試合運びをしてベルトを奪取していたら、所属団体“TBS”プロレスの命運も変わったのではないか、と指摘している。竹内氏のみならず、同様の意見を持つ者も多い。

 

 

 当時、プロレス界で唯一無二の存在であった力道山の死後、日本プロレスと決別して出来上がった2つの新興団体があった。社長職を追われた豊登率いる東京プロレスと、当時日プロの営業部長だった吉原功が社内でのゴタゴタに嫌気がさして独立した国際プロレスの2団体がそれである。そして東プロのエースと目されていたのが猪木で、国プロに所属していたのが草津だった。国プロの方は、放映局交渉でTBSと契約を結ぶこととなったが、それと同時にTBSは創始者の吉原を排除し、勝手に団体名をTBSプロレスに改めて、局主体の団体経営を推し進めていく。その第一歩が外国人招聘ルートを、所属選手でもあったヒロ・マツダから、法外なブッカー料が原因で日プロから絶縁されたグレート東郷へ変更したことであり、そのTBSプロレスとしての旗揚げ興行に、草津の凱旋とテーズのベルトへの挑戦を画策したのも東郷の手腕であった。

 

 そこで再び「草津バックドロップ失神事件」に話を戻してみると、確かに国際改めTBSプロレスは、その旗揚げにおいて大きな“ミソ”を"つけてしまった。しかし団体そのものは1981年の解散まで、その後12年間も維持できた。それに対して旗揚げの成功例のように挙げられる猪木vsバレンタイン戦を演出した東京プロレスの方は、その後の運営面の度重なるミスや「板橋暴動事件」の様な醜聞、さらには不明瞭な会計も相まってその後1年を待たずに崩壊したことを考えると、決して「草津バックドロップ失神事件」が国プロの解散を早めた遠因とは言い難い。更にいうならば、この事件(醜聞)が引き金となって、国際プロレスを強引にTBSプロレスに変えさせた当事者が急速に発言権を失い、結局吉原社長が復権して、元の国際プロレスに戻せたことを考えると、何とも皮肉な話だが、裏の意味で草津は救世主だったのかもしれない。

 

 昭和40年代の徒花といっていい2つの泡沫団体の興亡、といってしまえばそれまでなんだけど、猪木の新日と馬場の全日(猪木の旗揚げは不可抗力だったろうが、馬場のそれは三沢がノアを興した背景とダブる)が、脆弱化した日プロを凌駕したのと違い、力道山死後とはいえ、まだ隆盛を誇った時代の日プロに一矢報いようと奔走した「東プロ」と「国プロ」(特に国プロ)に思いを馳せると、まだまだ熱かった昭和のプロレスの息遣いが聞こえてきそうだ(;^_^A )