❝尼崎市立尼崎東高等学校❞だった、場所 | 気分はアンダンテ

気分はアンダンテ

特にジャンルは絞っていません。身近な自然、モノ作り、自転車散歩。
何気ない日々の事をあれこれと綴っていきます。

2018年7月19日(木)
田能にある特別養護老人ホームへ、母親の入所申込書を持って行った帰りに、
私達夫婦の出身校であった「尼崎市立尼崎東高等学校」の在った場所に寄って見た。

何もなくなっていた…
イメージ 1
ここは、当時の裏門(北側)。
普段は、閉まっていた。
イメージ 2
何故か、校名の銘板が残されている。
なんだかなぁ。
イメージ 3

先の裏門を右手に回り込んで来た、西側。
当時は、田んぼのど真ん中で、道など無かった。
白いフェンスの在る辺りに、プールが在った。
イメージ 4

イメージ 5

この道が正門に続く道で、左右共に田んぼの1本道で、学校に入って行くって雰囲気がとても好きだった。
梅雨時になると、カエルの大合唱の中を歩いたものだ。
授業中も、カエルの大合唱がうるさかったなぁ。
じゃまだとは、思わなかったけどね。
イメージ 6

こんな表示が、元正門前に掲出されていた。
イメージ 7

左側の壁に校名の銘板がはまっていたが、取り壊されていた。
写真では判り難いが、その壁の左側に小さな通用門があって、「守衛室」があった。
確か、遅刻をすると、ここで生徒手帳を取り上げられたと記憶しているのだが。
イメージ 8

残土を運ぶダンプカーが出入りしていた。
イメージ 9

私は、呪われているのではないかと思う時がある。

生まれ育った家々も、結婚して暮らした家々も全部、今は、跡形もない。
高校を卒業して、初めて就職した会社も消滅。
初めての仕事は、1970年の「大阪万国博覧会」だった。
過去に働いていた会社は、6社中5社が消滅。
まあ、全部退職してからだけどね。
卒業した、デザイン学校も廃校。
そして、高等学校も廃校。
極めつけは、結婚式を挙げた式場は、今は、葬儀場に(ノД`)・゜・。

自分の生きてきた証が、ドンドン無くなって行くわぁ!

尼崎市は、国に大きな借金をしていて、その借金を返すために、公共団体としての企業努力をすることもなく、手っ取り早く公共施設の建っている「市の土地」を売り払って現金にしている。
その「売る為の土地」を造る為に、児童数が減少していることを体のよい理由にして、どんどん小・中・高等学校などを閉鎖合併している。
マンションや住宅地や医療施設を建てるのに都合の良い学校を閉鎖して、校区合併させている。
高校は、自転車通学ができるからまだしも、
一部の小中学生は、随分遠い距離を徒歩通学させられているのだ。

これだけ、尼崎市の市有地が無くなって行ったら、将来、市民の公共施設の新設は絶対に無理だろう。

私達が生まれ育った「尼崎市」。
子供達には、明るい未来が開けている街になって残ってくれることを願っている。