yamaのブログ -4ページ目

yamaのブログ

こんなページでも寄ってらっしゃい

局所的豪雨、反対に水不足。気候帯が変化して、生態系のバランスが崩れる。
極地の氷雪が融けて海水面が上昇する。海抜の低い陸地は水没して、生活圏が狭められる・・・等々。

このような将来、確実に破局をもたらすであろう温暖化を阻止するべく、人類は一致団結して行動しなければならない。

―――そう言われて久しい。

人為的な要因による温暖化の根拠は、単純に人口が増えた為である。
1900年の世界人口16億5千万に対し、2020年は約80億人。4倍以上の人口増加と生活スタイルの変化によって、排熱量は20倍差くらいであろう。
1940年から1970年代半ばにかけて低温・寒冷な気象が続いたが、これも単純に2度の大戦で経済活動が衰退し、労働や社会活動を担う中核人口が減ったからである。
人間の数が減れば寒冷化するという明確な証拠がある以上、採るべき温暖化対策は人口削減であろう。※1 ↓
100年以前の温室効果レベル』にすれば良いのなら、20億人以下に人口削減すれば良いので、サイコロを振って死ぬ人間を決めれば良い。
2回の丁半博打で4分の1の人数にできる。すべての人間が例外なく、この間引き審判にかけられれば平等で公平であろう。
だが、いくら正論だと分かっていても、誰も実行したくないであろう。なので、有効な方法は温暖化対策など一切せずに放置する事である。
環境収容限界を過ぎた人類はもとより、増え過ぎた生物は絶滅するのが運命である。
人口がゼロになるなら、人類が環境に及ぼす温暖化要因も『』となるので、結果、万々歳となる。

産業革命と医療の進歩によって、人口爆発が引き起こされた。過剰な人口増加の抑制に寄与してきた『戦争』がオーバーキルの機能不全に陥った現代では、徹底した『自発的口減らし』(産児制限は、政策ではなく、自己責任で・・・)が必要なのだが、マクスウェルの悪魔は存在しない。「産めよ、増やせよ、野に満ちよ」の増産賛美と、「自由、解放、自分らしく」と独占・集約を是とする独善的個人主義とがせめぎ合っている。賛否は両論、同量・同質。昨今のLGBTを持て囃す風潮も、産児制限を意識してか、無意識に因るものか。1970年代の産児制限の時にも同性愛が騒がれた(薔薇族、百合族)。その後の80年代、エイズの流行で同性愛者自体が否定された。政策的産児制限の結果、少子高齢化社会となった先進国は衰退期に入り、発展途上の興伸国(後進国とは衰退先進国の称号)は貧乏人の子だくさん状態で破綻目指して、まっしぐら。不老長寿は出生率を下げ、貧困・飢餓は出生率を上げる。万事塞翁が馬とは、よく言ったもの・・・

さて、そもそも地球は、社会運動家たちが言うような温暖化はしていない。
現在、都市部で見られる高温化はヒートアイランド現象であって、地球の気候変動における温暖化とは別のものである。

極地の氷床が融解し、海水面が上昇して沿岸部が水没すれば、海洋の蒸散面(気化面積)が拡大するので気化熱によって気温・海水温は下がる。
低下した気温は水蒸気を雨雲に変え、低地や海洋に雨を、陸の高地には氷雪を降らせる。
固体の水(氷)は氷河を形成し地表に留まる。相対的に海水面は低下する。沿岸部は海退によって陸地面積を増やし、日中の高温化を招き、水の蒸発を促進する。
上空に形成された水蒸気層は温室効果を発揮して、平均気温を高く保つ。よって、水の蒸発が促され、降水量が増える。
降水は気温を奪い、飽和水蒸気量が低下して厚い雨雲になり、日照を遮る。低下した気温の中、水蒸気は凝結して液体の水(雨)となって陸地、海へと注ぐ。
そして、水蒸気が減った空は晴れ上がり、日照が増え、気温は上昇。再び水は気体(水蒸気)となって大気圏を循環する。
結局、地球の平均気温に変動はない。

あらゆる物事は、両面を備えているものである。温暖化の裏では寒冷化も進行するのだ。
温暖化のリスク面を叫ぶ連中のモデル・ケースでは、「極地の氷が融けて海水面が上昇、沿岸都市は水没して大混乱」の時点で思考停止している。
だが上の説明の通り、水が媒介する熱の循環(熱平衡)によって平均気温は保持される。
しかし、地球の大気圏にある水の総量は将来的に減少していくのは自明の理。熱の保持剤が失われた地球は低温化する。

1906年~2005年の気温上昇幅は、0.74℃だそうだ。これはIPCCの第3次評価報告書の予測値0.6℃より、大きい。
これを根拠に、「温暖化は確実、疑いなし!」と鬼の首を捕ったかのような環境保護団体(環境テロリスト)は、大はしゃぎである。

俺の手元にある記録(ただの日記)から、2020年夏の最高気温は38.1℃(15.Aug)。2021年冬の最低気温は-8.6℃(20.Jan)。その高低差(幅)は、46.7℃である。
過去、百年間の平均気温の実測と予測値の0.14℃の誤差に何の意味があるというのか?
そもそも夏は暑いし、冬は寒いものである。夏が冬の寒さに、冬が夏の暑さに逆転したところで、カレンダーは人間が作ったに過ぎず、呼び名を替えれば良いだけだ。
何にせよ、「とにかく大変なんだ!大変じゃないと困るんだ!!」と言うのなら、新聞紙上でやってくれ。
(俺は、新聞を買わない。存分に騒いでくれ)

縄文海進のピークであった6500年~6000年前、海水面は現在より5メートル高く、気温は1~2℃高かったとされる。
しかし、この仮説にしても、当時から季節の様相や地形が現在と同じで、人為的加工(開墾、埋め立てや灌漑)されていないという前提である。

このように100年前の気温を前提とする温暖化論には、致命的な欠陥がある。
議論の根拠となる気温は、いつ、どこで、どのように計測されたのか?
1988年に設立されたIPCCについても、温暖化している前提でのデータ収集、評価報告書作成と、公平かつ科学的弁証法に倣っていない。
例えるなら、初めから有罪ありきの冤罪裁判である。
「文明によって自然が破壊され、環境が汚染されている。人口爆発によって資源や食料が枯渇して、人類は絶滅する」
20世紀後半、マスコミがノストラダムスのような現代版末法思想と核戦争の恐怖を煽り、極端な自然主義と原理主義が台頭した。不安を煽って購買を増やしたいマスコミにとって『不都合な真実』は歪曲されるか、無視される。マスコミの流す社会的スティグマ(烙印)、悪質なレッテル貼りを利用した世論誘導・印象操作によって大衆は簡単にパニックに陥る。

(マスコミ悪者説の実例は毎日毎時、絶賛更新中。だが、そうじゃないだろう? マスコミのいかがわしい流言を欲してるのは消費者自身ではないのか。・・・毎度の事ながら、今回も話題が脱線しまくってるな)

―――先に述べたように、基準を小氷期であった中世から19世紀半ばに設定すれば、20世紀初頭ですら破滅的超高温となる。
本来の気候変動としての温暖化(氷河期の終焉)が始まった1万数千年前から、平均気温は上昇し続けている。
融けた氷河は、海水面を平均40メートル上昇させた。陸地は大きく面積を減らし、海洋に接続した平野部に暮らしていた動植物は生息場所を失い、大半は滅んだ。例え人類が原因でなくとも、絶滅は生物が存在する限り続く。

COばかりを目の敵にする温暖化論者たちだが、金星や火星のような、灼熱か極寒の極端な環境を生じさせているのは、ひとえに熱の伝搬者である『水』が無い事が原因である。
温暖化の主要因がCOであるならば、火星はドライアイスの極冠など出来ないくらいには温暖であったはずである。
元より微々たる量しか存在せず、邪魔者扱いしても大して影響の無い、適当なスケープ・ゴートとして重宝されてるのがCOなのかも知れない。

・・・無論、俺の実感でも、1994年くらいから夏の最高気温が上がった。冬に水道が凍るほどの低温もなくなった。だが、いつまで、どのくらいまで気温が上昇するかは断言できない。俺個人の過去40年くらいの日記をみても(我ながら几帳面な奴だ)、火山噴火の影響で冷夏や厳冬に見舞われた事もあるし、直近ではコロナ忌避の経済活動の縮小・停滞でエアロゾルが減ったせいか、日照時間が伸びて最高気温の持続時間が長くなった。※2 ↓

(朝焼け・夕焼けの時間が短くなった。緩やかな熱移動の時間が減ったので、気温の急上昇、急低下に繋がる)

現在の氷河期が完全に終わって間氷期が訪れたとしても、その頃には、どんな気候なのか?どんな生態系が広がっているのか?・・・など予測出来るはずもない。
環境保全の発議は、「自業自得で滅びるような愚かな真似は戒めよう。地球生命の一員として、己の分を知り、謙虚になろう」という主旨だったはず。
それが、いつの間にか「驕った人間の行いが生態系を破壊してる。人間が反省すれば、絶滅は回避できる」と論議がすり替わった。
いつから人間は自然を打ち負かすほど強大な力を手に入れたのか?
昨今のサバクトビバッタの大発生や新型コロナに翻弄されてる無能無様を何と言い繕うのか?

(先に滅んだ毛むくじゃらの創造主のペットとして品種改良された『出来損ないのサル』めが、身の程を知れ! 前々の記事を参照)


さてさて、記事のタイトルにある『温暖化の次に来るもの』の話題に移る。

46億年前、灼熱の火の玉として誕生した地球は、表面から冷え固まって固体の惑星へと変化しつつある。
地球誕生から8億年が過ぎた頃。最初の生命の素が現れ、36億年をかけてシアノ・バクテリアへと進化した。
その間には、地球内部の熱噴出による灼熱期、全球凍結の極寒期、時々降り注ぐ隕石群に因る激動の高温期、続いて訪れる灰まみれの低温期。
原始の生物は、幾度ものカタストロフに見舞われ、絶滅しかけては多様な進化を繰り返し、無数のバリエーションを生みながら過酷な試練を乗り越えてきた。
そして、現在。何度目かの氷河期が終わりつつあり、気候は温暖化している。
多種多様な生物が現れては滅びていくだろう。最後まで生き残るのは珪藻類だけ。この地球は、再び珪藻が支配する惑星となる・・・

20億年後、未来の地球。

太陽は核融合に必要な水素を使い果たし、火星の公転軌道を越えて膨張していた。太陽の膨張に先立って、地球は高温の太陽風に晒されて、海水の蒸発によるライデン・フロスト現象によって太陽系重力圏から弾き出され、天の川銀河の中心に向けて漂っていた。
次第に惑星中心部の熱核分裂も衰えていき、マントル対流が停滞する。地磁気のバリアが失われ、宇宙空間を飛び交う放射線の嵐に地球表面は焼き尽くされる。
地表は灼熱の電磁波地獄、地殻の下はすべてが凍り付いた極寒の低温地獄。
50億年以上続いた地球の生態系は進化する活力を失い、唯一残るのは約22億年前に登場した珪藻類だけ。珪酸塩を骨格とする耐熱性微生物と、氷結した水中でも生存可能な極低温微生物とに分化していた。かつて地球と呼ばれた惑星は、その成分の全てを珪藻に食い尽くされ、巨大な珪藻土の塊になり果てた。

宇宙を彷徨う珪藻は、生命の素を封じ込めたカプセルだった。
適当な惑星か衛星、彗星に辿り着けたなら、そこで生命進化の花を開かせるべく、じっとその機会を待ち続けていた。
宇宙は誕生から、たった約160億年。その寿命は、まだまだ続く・・・※3 ↓

というわけで、人間の歴史上で、これから遭遇するだろう温暖化なんて、地球史や宇宙史のスケールで考えても取るに足らない瑣末な事象でしかない。
はてさて、巷で言われてる温暖化対策って、本当にやる意味あるのか?

未来を変えたければ、自分自身で調べ・考え・答えを導く事である。
どうしても答えが見つからなければ、こう考えればいい。
正しい答えなんて、「最初から何処にも無い」のだと。

 

最後に、戯言の付け足し。
世の大多数が誤解または混同してるが、温暖化砂漠化は別の現象である。
砂漠化は、農業による土壌からの過剰な搾取が原因である。気温の上昇とは、大した関連は無い。
俺がまとめた「氷河期=砂漠気候」仮説によれば、
氷河期とは全体が低温で寒いのではなく、高温帯と低温帯が極端に区分され、熱の伝搬者である流動的な『水(液体、気体)』が不足した状態
が氷河期の実態だと考えてる。
この仮説の根拠として、この記事を書いてる筆者が住む長野県は冷涼で乾燥した砂漠気候であるが為に、農業には不適切な土地柄である。食料にもならない高山植物が大部分を占める、このような貧弱な生態系を、俺は「緑の砂漠」と呼んでいる。ついでに、水循環が起こる標高以上の高山帯に囲まれているので、温暖化しても長野県には何の恩恵も、影響も無い。
それらを踏まえた上で、少し穿ってみよう。
「砂漠化」を「温暖化」の結果であるかのように喧伝し、危機感を煽る環境保護を謳った啓発本は数知れず。
元・政治家を騙るペテン師のベストセラー、「不都合な真実(ISBN 978-4270001813)」に至っては阿漕な商売の見本だった・・・

悪質な政治プロパガンダの代表と言えば、
嘘も百遍繰り返せば真実となる(『我が闘争』アドルフ・ヒトラー)
であろう。
真実」なんて言葉を使う輩は、心底、信用ならん奴だと知るが良い。

常識を疑え、倫理を疑え、ありとあらゆる全てを疑え。
「なぜ、どうして?」素朴な疑問と好奇心によって真理の探求は始まる。


※1 ↑
第一次ベビーブームで出生率は上がったが、成人までには20年近くを要し、子供には成人ほど消費させない。この第一世代が親になる1970年代が第二次ベビーブームと呼ばれ、積極的産児制限政策「バース・コントロール」「一人っ子政策」が実施された。ファッション・トレンドとしても、独身貴族、核家族化推進(少人数世帯は生活コストが高くつく)が持て囃された。
これらの政策やマスコミによる合意形成の背景には、爆発的人口増加に対する重大な危機感があった。
人間は恒温動物なので、常に36.5℃の赤外線(熱線)を発している。一方、体温を一定に保つ為、発汗や呼吸で水蒸気を放出している。
さらに呼吸によってCOを常に排出している。食物を消化する過程で発生するメタンやアンモニアも温室効果を持つ。
このように、人間は、ただ生存しているだけでも深刻な環境破壊をしているのだ。

※2 ↑
可視光線域の赤色より波長の長い赤外線は肉眼では見えないが、散乱され難く、遠くまで届く。温室効果は、この赤外線放射が重要な働きを担っている。
朝焼け・夕焼けの時間が短いというのは、赤外線を含む波長の長い電磁波によって熱っせられる物質(塵埃、水蒸気など)が少ないという事でもある。
とかく嫌われ者の温室効果だが、この作用が無かったら地球は火星のように二酸化炭素がドライアイスになるくらい(-78.5℃以下)の凍て付いた惑星となる。
温室効果ガスとして、水蒸気(2HO)はCOの4倍の威力を持つ。
サウナ(蒸し風呂)から想像出来るように、水蒸気の温室効果は大きく、また地球大気の平均気温を一定に保つ働きがある。

※3 ↑
温暖化というキーワードから、パンスペルミア説へのSF的飛躍を試みた。
天文学的にも、地球は誕生時の煮えたぎるマグマの塊から冷え続けている。20億年後の未来が、どうなるかは知らないが、水が媒介する熱平衡の仕組みは科学的事実に基づく考察なので、太陽(恒星)からの熱の供給がなければ、いずれにしても地球は冷えて凍り付く。
人間が環境に与える負荷は、自らの首を絞めるには十分だが、地球の自然環境や生態系を左右するほどではない。人間が及ぼし得る影響力は、ありったけの原水爆を掻き集めたとしても、台風の進路ひとつ変えられない・・・

 

ようやく今年も梅雨入りした。
気象庁の入梅予測も二転三転したようだが、所詮、予定は未定でしかない。

その気象庁に関係するが、2021年6月17日~、御嶽山噴火災害訴訟・16回目の口頭弁論について、個人的に思うところあってケチを着ける。
詳細を知りたい御仁は各自検索してもらうとして、以下、要約。

2014年9月、木曾御嶽山が噴火した。不幸にも噴火に遭遇し、多くの登山者が被害を受けた。
それに伴い、国や行政、気象庁の不手際を被害者・遺族が訴えた事件である。
「気象庁や行政は当時、火山性地震の頻発を把握しているにも関わらず、噴火予測の警戒レベルを据え置き、予測可能な危険性を放置し、入山規制も実施しなかったがゆえに多くの登山者を噴火の犠牲にした」『2014年の御嶽山噴火』※ ↓

というのが原告側の主張である。

このニュース、「国は何をやってるのか。まったく怪しからん!」という論調で地元地方紙は報じているが、ちょっと待て。
東日本大震災でも似たような裁判が起こされてるが、そもそも予測者の責任を問うには、
『いつ』『どこで』『どのくらいの規模』で、『どんな被害』が起きるかが100%予知出来るのが前提であろう。
事件は会議室で起きてるんじゃない。現場で起きてるんだ
ドラマのセリフにもあったが、さりとて気象庁の派遣した「火山対策官」が現場にいたからといって未然に防げたのか?
明日の天気予報すら的中率の低い、ましてや精度など求めうべくもない気象庁の判断など、アテにする方が間違ってる。
(火山対策といっても、何が出来るのか?せいぜい「君子危うきに近寄らず」が正解だろう)

地震計の故障を放置していた国や県も訴えられているが、機器交換か修理費用の予算請求はしているし、機器故障が噴火を引き起こしたわけじゃない。

危険予測は、後出しジャンケンのようなもの。起きてからなら、どんな屁理屈言いがかりでも付けられる。

何が危険で安全なのか。完璧で明確な基準などあるのか?
事態は刻一刻、千変万化するものである。
この宇宙に永久不変のものなど無い。絶えず変化する予測不可能な事物に、手前勝手な非難をぶつけるというのは愚かな行為でしかない。

要約文の、ある表現にも異議を述べる。
登山者は火山噴火という自然災害の被害者であって、危険な状況に強制的に送り込まれた犠牲者ではない。

2014年の噴火に関しては、そもそも御嶽山は、その7年前にも噴火したばかりの活火山である。
危険か?と問うなら、警報の有無に関わらず、100%危険である。
それを承知で入山している以上、本人の自己責任以外に問われる責任など在りはしない。

そもそも危険の伴わない冒険などない。敢えて非日常を求めた結果、死傷という事態に遭遇したに過ぎない。
それを別の誰かのせい、何のせいと責任転嫁して何になるのか?
(あらゆる事態を想定し、対策を準備をするのは誰の義務なのか?手すりも舗装も階段も無い登山道でコケたところで、整備しなかった国や行政が悪いと文句を付けるのか?政府や行政は、公共に対する義務や責任は負っているが、個々人の状態まで把握し管理する権限は持たない。寧ろ、そんな監視社会は、ご免であろう?)

他人の非を責めるなら、その前に自身の落ち度を省みろ。被害者ヅラして他人を貶す、お前は一体、何様だ?
手前に都合の良いだけの世界など、この世に在りはしない。
登山とは、安全が確保された遊園地のアトラクションではない。
厳粛な自然の理を実感し、己の卑小な身の程を知る為の修験ではなかったか?
手柄は独り占め、しくじりは他人のせいと厚顔無恥な手合いには虫酸が走る。

・・・ま、遺族にしてみれば、突然降って湧いた災難に困惑し、まるで理不尽な仕打ちに思えてならないだろう。
やり場のない心痛に耐えられず、八つ当たりのひとつもしたくもなろう。
しかし、治まりどころのない感情に振り回されて、正気を見失うな。
こんなバカげた裁判が4年5ヶ月も続いてる。まだ21世紀前半だが、世も末である。
生き残った者は自らの憂さ晴らしに躍起にならず、死者の往生際を汚さぬよう心掛けるべきである。

相変わらず、冗長で話題が散らばりまくった。

大雨、洪水、地震に噴火。荒々しくも変化に富んだ自然が凝縮した日本列島に災害は付き物である。
これから夏山登山がシーズン本番を迎え、コロナ忌避でアウトドア・キャンプの需要も盛り上がるだろう。
だがしかし、自然相手の危険予知・回避など絶対に不可能。自分の身は自分で守るしかないという常識を肝に銘じ、用心して活動すべし。

 


 

※ ↑引用元
wikipedia_ja_all_maxi_2021-03.zimより)
2014年の御嶽山噴火(2014ねんのおんたけさんふんか)は、2014年(平成26年)9月27日(土)11時52分(日本時間)に発生した、長野県と岐阜県の県境に位置する御嶽山(標高3,067メートル)の火山噴火である。噴火警戒レベル1(平常)の段階で噴火したため、火口付近に居合わせた登山者ら58名が死亡した、日本における戦後最悪の火山災害である。
信濃毎日新聞 2021年(令和3年)6月16日水曜日 第三社会(p.29)より)
御嶽山の噴火災害訴訟
2014年9月27日午前11時52分、御嶽山(長野・岐阜県境、3067メートル)山頂近くで水蒸気噴火が発生。山頂付近で多くの登山者が噴石や熱風に襲われ、死者58人、行方不明者5人を出す戦後最悪の火山災害となった。県内外の5遺族、計11人が17年1月、気象庁が噴火前に噴火警戒レベルを引き上げず、県は山頂付近の地震計の故障を放置していたとして、国と県に計1億4千万円の損害賠償を求める訴訟を地裁松本支部(松本市)に起こした。国、県ともに請求棄却を求めている。

追記:

噴火のその日、俺は長野県内の中学校・校舎新築工事で屋根の鈑金作業をしていた。
鉄骨の梁の上を渡り歩きながら、高所恐怖症気味のへっぴり腰の同僚を尻目に、「落ちたら死ぬわな。それだけの事じゃねぇか」と感覚麻痺の平常心。
作業終了後、帰社。会社事務所のTVで噴火のニュースを目にした。
「遊びに行ってて死んだか。ザマ~ねぇな。そもそも活火山だぜ。ナメてんじゃねぇや」
と居合わせた同僚の誰かに身も蓋もない毒を吐いて、月曜の作業内容の確認後、帰宅。
―――この件に限らず、甘ったれた戯言抜かす身の程知らずを見ると所構わず反吐が出る。

俺の日記、「2014/09/27(SAT)」より。原文は、もっと口が悪いのでブログ用に穏当な表現に書き改めた。

この記事自体は、6月18日の他人様に見せるつもりのない個人的な日記だった。
なのだが、前々回・前回・次回に上げる記事のテーマとも繋がるので、内容を大幅に改変して公開する事にした。
(26.June.2021)

 

 

これは、俺が長年考えている仮説である。

まず結論から述べる。
人間は品種改良された動物である。
ホモサピエンスに先行する知的動物が、家畜ないしペット(愛玩動物)として作り出したのが『人間』だ、という仮説である。

人間の特徴として、以下のようなものがある。

  1.  皮膚が薄く、毛皮を持たない。
  2.  筋力が弱く、牙や爪も貧弱である。
  3.  生活力が低く、整えられた環境でなければ生きられない。
  4.  神を信じて疑わない、逆らわない。
1.について、
毛皮を失ったのは保温の必要性が低い熱帯や水辺での暮らしに適応した結果とも考えられるが、皮膚のひ弱さはカバやゾウを引き合いに出すまでもなく、ハダカデバネズミも見かけに反して強靭な皮膚を持っている。
(この様な皮膚を持つ動物にイヌ科のチワワがいるが、寒冷期の欧州で手先を温める湯たんぽとして品種改良された結果である)
毛皮を持たず、皮膚が弱く薄いのは、家畜(餌)として食べる側の都合だと考えられる。
2.について、
人間は体力の無さを知力で補っているとも言えるが、捕食動物としては攻撃力の無さは生存には不利になっても得にはなるまい。
これは道具に頼る結果、退化したとも考えられるが、逆に言えば道具を取り上げられたら無力となる。
知力の発達を別の視点から見ても、飼育された結果、捕食や防衛にかける労力から解放され持て余した時間とエネルギーを解消する為であるかも知れない。
室内で飼われるペットを見れば、ひたすら無駄鳴きしたり、オモチャ遊びに没頭するのに似ている。
貧弱な肉体と過剰に発達した脳でカロリーの大半を費やす偏ったエネルギー代謝をする生き物である。
3.について、
例えば、誰しも自然は素晴らしいとか偉大だとか語るくせに、徹底して反自然的な行動や思考パターンの生活様式に執着する。『自然に帰れ』というフレーズはよく耳にするが、裸にひん剥いて、どっかの山の中にでも捨ててくれば半日も経たずに白旗を掲げる。
人間は野生動物としては生きられない。
究極のサバイバリストである俺でも、真冬の山中でこれをやると二時間以内でギブ・アップである。気温マイナス20℃、晴れた日中で無風状態、積雪有りなら倍の時間保ったが、凍傷で指を失う前にドクター・ストップした。指先以外にも鼻や耳など突出した部位が元通りになるまで、膿の悪臭と痒みに耐えつつ、ひと月以上かかった。「何事も経験だ」と活きの良かった十代、二十代の頃だったので無事に回復してくれたが、今の年齢で「三度目の正直」は試したくない。
そんな俺自身の経験を踏まえても、他の動物のように生まれ持った肉体のみで生きられる耐久性を持たない。
4.について、
宗教でいう神(創造主)の存在を疑いなく信じられるという本能――創造主には絶対服従、従順にしていれば安心――も、そういう気質を持った個体だけを選別したからかも知れない。創造主に対する抵抗力や反抗心を奪い、飼い主に都合の良い部分を伸ばした結果ではなかろうか。オオカミを飼い馴らしてイヌにした手法と同様である。

これらから人間は進化の過程で偶然に自然発生したのではなく、前述のように意図して作られた生物だと思えないか?

次に、ではホモサピエンスを作り出した先行した知的生物とは、どの様な生物であったのだろうか。
単純に考えて、ホモサピエンスより巨体で肉食寄りの雑食だったであろう。
巣穴を掘る動物で、その巣穴の中でホモサピエンスも同居していた。ホモサピエンスは、外界(自然)から保護・隔絶された環境を提供されていた結果、牙や爪、毛皮や丈夫な皮膚を持たずとも生存できた。原始人類が穴居性だった事からも、想像に難くない。
知的な動物ではあったが、巨体ゆえに狩りは得意ではなかったと思われる。道具は作らなかったか、必要としなかった。

・・・これってギガントピテクスの事じゃなかろうか?
大型化したがゆえに小回りが利かなくなって、サポート要員が必要になった。
コンパニオン・アニマルとして他の霊長類を飼い馴らした結果、ホモサピエンスを生み出し、共生関係を築いた。
主従は逆だが、『はじめ人間ギャートルズ』のゴンとドテチンのような関係だ。器用さや賢さをホモサピエンスに任せ、防衛や力仕事を担当するギガントピテクス。
(友人であり、相棒であり、時に食料でもある)

ホモサピエンスの特徴で、もうひとつ。繁殖期を持たないと言う点である。
メスは妊娠・出産の前後を除いて、毎年でも出産が可能。選別による品種改良という点でも好都合な性質だ。要らない子は食料にもなる。性成熟までの期間が長く、それまでは養育・保護者を必要するので共依存の期間も長くなる。
氷河期の終わり、環境の変化に適応できずギガントピテクスは絶滅。残されたホモサピエンスは自立を強いられた。
そして、新たなコンパニオンとしてオオカミからイヌを作り出し・・・


未完成の仮説であるが、考えれば考える程、沼に嵌る。
神だの宇宙知性体だのとオカルトを持ち出すまでもなく、人類の祖先が登場して数百万年。ホモサピエンスが大自然から独立して数十万~数万年。現代人の歴史に至っては数千年。
人間が進化論や考古人類学を考え出したのは19世紀後半からなので、たったの百数十年。科学技術の発展にしたところで同様である。それに比べれば、人間の品種改良に要した時間は十分にあったはずだ。

さて、こんな妄想はキリがないので〆る。

 

こんな厨二病な仮説を思いついたのは、正に中学2年の師走であった。
あれから三十数年。TVニュースの党首討論後の野党代表の”おまいう”なコメント映像を見ながら、「何で人間は、こうも愚かで間抜けなのであろうか?」という自問に自答する。そんな時、今さら思い出したのが上記の厨二病仮説であった。
・・・今日は(2021.10.june)、今年初の真夏日。暑さのせいだな。季節の変わり目、どちら様も体調管理には気を配ろう。

 

近況とは言っても、ここ数年の日常なので今さら何かある訳ではない。
相変わらず定職も定収も無く、その日暮らしを続けている。座右の銘は、

「不自由な安定より、不安定な自由」

好き勝手やりたい放題、無責任で安楽だけを求める事を自由とは呼ばない。自由とは、辛く厳しく苦しく孤独で寂しいものである。まるで荒行を死ぬまで続ける修験者だな。
ジャイナ教の最終修身は即身仏になる事だが、成程<なるほど>、真の解放とは死ぬ事なのか?
(はて、確か俺はプロテスタントだった気がする。キリスト教も別の意味で『天国』という名の『地獄』行きを標榜してるが・・・)

死んで花実が咲くものか。生きてこそ人生である。

そんな俺も、気が付けば今年は50歳の大台を迎える。
俺には頑健過ぎる肉体としぶとい能天気を備えた『不死身』が与えられている。多分、150歳位まで生きるだろうから、50歳とはいっても、まだ一生の3分の1か。祝福と呪いは表裏一体と言う事だな。先は、まだまだ長そうだ。

さて、日頃から世間の常識とはかけ離れた生活をしている俺だが、昨今の風潮は目に余るものがある。
引き続くコロナ禍ではあるが、どいつもこいつも何を考えているのか?
人口多過ぎ、情報多過ぎ、問題多過ぎだからなのか、現代の風潮は、やれ自分の権利が蔑<ないがし>ろにされてるの何のと、コロナ以前からエゴイズム(=利己主義)の跋扈<ばっこ>が喧<やかま>しい。
泣き声上げるしか能のない赤ん坊ではないのだから、自分の事は自分で何とかするものだ。
誰かに強請<ねだ>って成した事は、自分が成した功績でも手柄でもない。
不平不満の大声を上げる前に、自身は他者の権利や立場をちゃんと尊重しているのか厳しく自省した上で、自分には何一つ反省する瑕疵<かし>は無いと確信出来たなら、遠慮がちに批判の呟<つぶや>きをチラシの裏にでも書き留めて、丸めて捨てろ。その為にゴミ箱はある(※但しSNSは、ゴミ箱に非<あら>ず)
要するに、いい加減、「無か全か、善か悪か」という二元論は止めろと言う事だ。
哲学なんて戯言だと思ってる俺の本棚に、何故か並んでいた『善悪の彼岸(フリードリヒ・ニーチェ、1885年)』。19世紀後半を代表するドイツ哲学者の著作からの引用、というより俺なりの解釈である。
19世紀後半の西洋社会を批判した古臭い内容の思想書だ。これが世に出てから百年以上経っているにも関わらず、現代社会は当時より進歩するどころか寧<むし>ろ後退してるのではなかろうか?
コロナに限らず、何かにかこつけて持論を喚き散らすのは、眼前の問題に対する解決策にならない。便乗というものは、騒擾<そうじょう>(クーデター)を企む輩の常套手段である。
自由だ権利だと宣う輩の思い描く理想は身勝手極まりない「お花畑理論」だから、それに唆<そそのか>された者の末路は悲惨な生き地獄である。
―――閑話休題、社会批判の自論は別の機会に譲ろう。
現状、コロナ禍に対しては、どう向き合えば良いのか? 冷静かつ慎重に振る舞うしかない。
人間社会のシステムや政治を改変したところで、ウィルス相手に交渉は不可能。即ち無意味だ。人間側に打てる手は、ウィルスに対抗出来る免疫を獲得するしかない。
詰まるところ感染しても生き残るしかない。ワクチン接種の意義も同様である。
「何とかなるさ。何とかするさ」と腹を括<くく>るしかないと言う事だ。そして、何とかならなくても納得しろ。
新型とは言え、コロナ・ウィルス自体はありふれたウィルスに過ぎず、現時点における日本国内での死者数にしても、毎年流行するインフルエンザ死者の累計<るいけい>と比較して決して多いとは言えない。
(具体的な根拠は無いが、およそ百年前の「スペイン風邪」から累計すれば相当な人数であろう。未来においても・・・)
パンデミックで人類が大勢が死んだところで、それがどうした?
過去、人類は飢餓や疫病で何度となく絶滅寸前を経験してきたではないか。
今回のコロナ禍で人類が滅ぶのなら、それまでの事。どうせ誰でも、いつか死ぬのである。いつだろうと、理由がなんであろうと。それもこれも自然の摂理(エコロジー:生態学)の一つに過ぎない。
なので、くれぐれも血迷った挙句、無謀な行動に走らないように。正しく恐れよ、だ。
(予防と対処の心がけは耳タコだろうから省略する)

さてさて、久々のブログ更新なのだが、困った事に特段書くネタが無い。
あと、メインのPCが壊れたのを機にネットを離れていたら、ジオシティーズがサービス終了してたり、メールやSNSのログインが出来なくなってたり。
(再認証のコード送るから、携帯かスマホのメアド入力しろとか。・・・使ってない。持ってない)
何よりブックマーク(2013年のバックアップが最新)してたページの十中八九が消えていた。ま、自分のウェブ・ページだって消滅してるんだから当然か。
(ちなみに最終更新は2016年だった。このブログは・・・)

と、まあ、近況報告と言いつつ、無駄話・愚痴話に終始してるな。
おまけに年とともに小便の切れが悪くなるように、文章までがダラダラと無意味に長くなる。
春の衣替えついでに物置の整理したら、古本に混じって中学生時代の日記帳が出てきた。片付けをサボって、否、つい読み返してたら何と簡潔かつスピーディーかつ生き生きとした文章なのかと自画自賛。それより日記の小論文が触発されたと思しきシュヴァイツァーの伝記はどこへ行ったんだろ?ニーチェの思想より、シュヴァイツァーの思想に感銘を受けた小ガキ生時代・・・いかん、また与太話が長くなる。
いい加減、駄文を〆<しめ>よう。時間に追われるマンガ喫茶のネットだし。
コロナで右往左往する世間様を横目に眺めながら、改めて俺にわかったのは、

「(常には)ネットもスマホも要らねえや。余計なカネも要らねえから、あくせく働く必要もない」

コロナ対策の巣ごもり(引き籠<こも>り)生活なら、こちとら年季が入ってる。俄<にわ>かの手合いには負ける気がしない。
―――と言う事である。

以下、自問自答。

物にあふれた便利で快適な生活って、本当に必要なのか?
妬み、恨み、ストレスやら不平不満に塗れて生きるのが、本当に幸福なのか?
毎日を無邪気に笑って過ごせてるだろうか?

あなたの答えは、どうかな?

 

 

難読語の読み仮名を””、””で示す。目障<めざわ>りだろうが、ご容赦<ようしゃ>を願う。

雪である。

外は雪、大粒の雪塊が降りしきる。いよいよ、本格的な冬の到来となった。

 

ここ数日、俺以外の家族も喉風邪にやられて、咳に悩まされる日々。
 
年末を控え、振り返ってみるに、今年も色々な出来事があった。
良い事も、悪い事も数あれど、何とか生きて乗り越えられたので良しとする。
ちょいと早いが、どちら様も良い年を迎えられますように。
くれぐれも、体には気を付けてね。

今年は、暖冬で明け、季節外れの寒い春を越し、しとしと降る雨でなく土砂降りの雷雨に見舞われている。

晴れたり荒れたりの繰り返しで、一向落ち着きのない季節が巡っている。

 

…などと、抜かしていたら、もう今年も6月下旬。歳取ると時間の経つのが亜高速である。

こうなったら、暑い夏は止めてもらって、早く来い来い秋の味覚。

(いかん。壊れてる…)

 

まじめな話。

稼ぎが足りない。去年の台風で壊れた屋根をやっと修理したと思ったら、今度は家族が体調壊して入院中。俺も20数年来、半病人のままである。

さてさて、残り半年を、どう遣り繰りしたものか? 思案にくれるばかりである。

気が付けば、季節は冬。

俺は、この数年、ついてない。

  真面目に働いていても、給料は不払い。(ゴネまくって、ようやく毟り取ったが・・・)

  PC・周辺機器が軒並み、ご臨終。

こちとら、野山に入りて、草の汁、虫を食らって辛うじて生き延びてるってのに、「税金年金健康保険」だと、催促だけがやって来る。社会保障の恩恵なんて垢の一欠けらも与ってないってのに・・・何だいこの仕打ちは!?

ま、愈々となったら、人でなしだろうが、テロリストだろうが、好きに呼ぶが良い。失うもの何一つない人間の怖さを教えてやる。

 

さて、そんな事より、ここ数日は真冬の寒さが続いてる。

どちら様も、体調には、くれぐれもご用心を。

スパイダーマン 劇場版

企画 吉川 進
脚本 高久 進

原作 八手三郎 (マーベルコミックス版「スパイダーマン」より)
連載 テレビマガジン/たのしい幼稚園/テレビランド/おともだち/冒険王

スパイダーマン/山城拓也 香山浩介(※藤堂新二)
佐久間ひとみ 三浦リカ
山城新子   大山いづみ
山城拓次   矢葺義晴

間宮重三 仲谷 昇
モンスター教授 安藤三男
アマゾネス/吉田冴子 賀川雪絵

ナレーター 大平 透
スパイダーマンアクション 古賀弘文
ジャパンアクションクラブ
 横山 稔
 井上清和
 竹下誠治
 岩城一男
 蒲原敏明

撮影 加藤弘章
照明 高橋洋一
美術 大瀬賢一
助監督 平山公夫
録音 秋本 彰
編集 望月 徹
効果 原田千昭
選曲 村田好次

進行主任 大里俊博
記録 福田秀子
車輛操作 高橋政生
技斗 金田 治(ジャパンアクションクラブ)
 ㈱特撮研究所
撮影 高梨 昇
美術 松原裕志
効果 鈴木 昶
照明 日出明義

音楽 渡辺宙明
主題歌 「駆けろ!スパイダーマン」「誓いのバラード」
 作詞 八手三郎
 作曲 渡辺宙明 
 唄 ヒデ夕樹
コロムビアレコード/ファンファニー
撮影協力
 山下新日本汽船株式会社
 東京エアーラインズ株式会社
 株式会社 東京ホテル 浦島

装飾 大晃商会
装置 協和美建
美粧 入江美粧
衣裳 東京衣裳

キャラクターデザイン/
 企画者104 久保宗雄
キャラクター制作 / エキスプロダクション
オートバイ協力 スズキ自動車
現像 東映化学

監督 竹本弘一

・暗闇の中、クモの如く這い、蠢くスパイダーマン。
・狭い竪穴の底に閉じ込められ、逃げ場を失う。
・「まんまと罠に嵌ったなスパイダーマン」どこからともなく響く声。
・罠の底が抜け、絶叫しながら底なしの奈落へ、どこまでも落ちていくスパイダーマン。
・山城家の庭先。悪夢にうなされ、目を覚ます山城拓也。昼寝していたチェアーベッドから起き上がる。
・冷や汗を拭う拓也。妹・山城新子の悲鳴が聞こえる。
・高架下のトンネル通路。買物帰りの新子と弟・拓次に鉄十字団の戦闘員ニンダー部隊が迫る。
・逃げ惑う妹弟のもとへ駆け付ける拓也。逃走するニンダーたちを追いかける。
・住宅街の狭い路地をスパイダーマンの姿となって追う。
・ビルの非常階段を上っていくニンダー。スパイダーマンはビルの壁を這い登って屋上へ。
・襲い来るニンダー。応戦するスパイダーマン。
・潮時を見て退却するニンダー。再び追うスパイダーマンだったが見失ってしまう。
・その様子を別の場所から窺っている中年の男。
・自宅へ戻った拓也。電話が鳴っている。
・家の中に妹弟の姿はない。電話に出る拓也。
・電話の相手は、拓也に妹弟と恋人・佐久間ひとみを預かっていると仄めかし、拓也をホテル浦島へ呼び出す。
・拓也は、敵の罠を疑い、スパイダーマンとなってホテル浦島へ向かう。
・指示されたホテルの客室に忍び込むスパイダーマン。
・部屋に閉じ込められたスパイダーマンの前に、インターポール秘密情報部の間宮重三と名乗る男が現れる。
・間宮の正体を疑い、妹たちを返せと言うスパイダーマン。間宮は誤解を解くためにモニターを見せる。
・ホテルのプールで、はしゃぐ新子とひとみ、拓次たち。
・「わたしはどうしてもスパイダーマンの正体を突き止めたかった」間宮は、拓也がスパイダーマンだと見抜いていた。
・インターポールは、相次ぐ石油タンカー襲撃事件の真犯人が鉄十字団だと知り、スパイダーマンとの共闘を申し入れるために呼び出したのだった。
・ホテルに迫る鉄十字団を察知したスパイダーマン。間宮を部屋に待機させ、迎撃に向かう。
・ニンダーとの戦闘。
・鉄十字団の別働隊は間宮を拉致する。呼び出し状を残していく。
・鉄十字団のアジト。モンスター教授は捕えた間宮からスパイダーマンの正体を聞き出せと命ずる。
・間宮に拷問を課すとともに誘き出したスパイダーマンを抹殺する罠を張り巡らせる。
・沖合に停泊したタンカー。スパイダーマンは待ち受ける鉄十字団の監視と罠をいかに切り抜けるのか?
・拷問にも屈しない間宮に業を煮やしたアマゾネスは、マシンベム・海魔王にコンビナートを破壊させると脅迫する。
・タンカーに潜入したスパイダーマンは、スパイダーマンの正体を白状する寸前だった間宮の奪回に成功する。
・間宮を逃し、追撃してくる鉄十字団とスパイダーマンの死闘。
・海魔王を倒し、コンビナートの破壊を防いだスパイダーマン。
・目前の脅威は退けたものの、鉄十字団との戦いは、まだ続く。スパイダーマンは、インターポール・間宮と共闘の約束を交わし、固い握手を結ぶのだった。

感想文

夏休み恒例、東映まんが祭りで公開された作品である。
実は、この作品の存在を俺は知らなかった。2009年にインターネットの本家マーベルの公式サイトで順次公開されていった本編動画の最後、エピソード0として公開されて、ようやく知ったのである。
ま、地方に住んでいて、テレ東番組をリアルタイムで視聴できる環境もなかった。
我が家ではVHFのアンテナ・ブースターのお陰で、映りは悪いが東京キー局を受信できた)周囲の友人たちは、テレビはおろか雑誌の情報すら知らない輩がほとんどであるから、話題に上ることすらなかった。
都会と田舎の情報格差は年々縮まってるが、その時代、その年齢でリアルタイムに経験しなければ共有できないこともある。少年老い易く功成り難し、である。例えてみれば、ゆとり世代が学力格差以上に不幸なのは、過ぎ去った時間は取り戻せないという点である。
マーベルとの契約でキャラクター使用に制限がある関係上、タイムシフト放映や再放送、特撮図鑑といったムック本関係もチャンスを逃すと日の目を見れない憂き目に遭う。

余談だが、雑誌なども滅多に買えない(買ってもらえない)俺は、数年遅れでテレビマガジンの古本を小学校の廃品回収の折りに入手(横領)して、似顔絵イラストのネタにしてたくらい。それさえも最終話のモンスター教授とレオパルドンの決戦がメインで、肝心のスパイダーマンはGP7のフロント・カウルの上で決めポースを取ってる写真と、ブレスレットを開いてマーベラーを呼んでる斜め下からのバスト・ショットのクローズアップくらい。スパイダー・プロテクター(スーツ)の細部がわかるような多アングルからのスチールもなく、東映版スパイダーマンのイラスト起しは、ほとんど想像で描いた。
ま、この番組に限らず、ビデオデッキが普及する、はるか以前の時代である。テレビを観る時はメモを取ったり、デッサンを取ったりしながら観ていたのだ。そのお陰で、瞬間記憶と速記術、何より集中力が大いに鍛えられた。中年を過ぎた今でも一度見聞きしたことは忘れない。忘れる前に書き残せるという特技にはなってる。

さて、この作品についてだが、映画館に足を運ぶのは、テレビや雑誌でスパイダーマンを知ってる子供だけとは限らないので、回りくどい説明も筋運びもなく、ひたすらアクション・見せ場の連続だということ。
冒頭からスパイダーマン独特のアクションが全開である。スパイダーマン・アクションと名付けられた古賀弘文氏の元・体操選手ならではのアクロバティックなスタントは、映像にこだわりのある竹本監督の演出も相まって、室内、屋外、公園、タンカーに、ヘリコプターと様々なシチュエーションを存分に生かした華麗なものに仕上がっている。
特撮シーンも、テレビ版の急場しのぎ的なやっつけ仕事ではない・・・と言いたいのだが、巨大マシンベムと戦うレオパルドンの右脇腹、胸部パーツのジョイント部分が外れてるという有名なシーンで、黒の全身タイツで着ぐるみを着ている着ぐるみスタントマンの生身の上腕部分が見えちゃってる。この辺が、細かいことは気にしないアクション優先の監督の悪い部分だ。そんな大ポカを劇場の巨大なスクリーンで見せられたんじゃあ、いくら子供であろうと目も当てられまい。言いたくはないが、可動範囲が狭い上に歩くことさえ儘ならないレオパルドンにアクションを求めるなよ。カット繋ぎの飛び道具でケリ着けてるテレビ版の方がマシに思えてくるぐらい。
(ま、この辺はアクションを考慮しないでレオパルドンをデザインした玩具メーカーの責任でもあるんだが)
ラスト・シーンで、撮影スケジュールの都合なのか、波止場の突堤で間宮と握手を交わすスパイダーマンは古賀氏であろうか? 間宮役の仲谷氏と並んだスパイダーマンは、かなり小柄である。足元を映さない構図でも問題ない展開だろうに・・・。
(波止場でのアクション・シーンの繋がりで、ドラマ部分の役者をフィーチャーしていなかった、とも考えられる。製作順で考慮するなら、ドラマ班は別パートの撮影最中だったとか)

テレビ本放送では、この作品公開後、唐突に何の説明もなくインターポールとスパイダーマンは協力関係になってるにもかかわらず、山城拓也の主な収入源はオートバイ・レースの賞金という設定が薄まり、万年金欠で恋人のひとみの手伝いで小遣いを稼ぎ、ひたすらスパイダーマンの正体を隠すためにドジで間抜けで情けない男を演じるというスタイルが定着するのである。インターポールにしても、スパイダーマンに協力してくれるのは情報提供くらいである。秘密を重視する組織というのは、現場で役に立たないどころか余計な出費を強いるだけだと早よ気付け。インターポールしかり、鉄十字団もしかり・・・
(情報公開ってのは、賛同者が集まり易い反面、指揮系統の統制が難しいって面もあるが)

俺の定義設定

EP1~3、41、劇場版とシリーズ中5作品を取り上げて鑑賞した。
(勿論、全話見返した上に、メモも取った)
本来ならば、全話をこの形式で網羅すれば同人誌のネタになるのかも知れないが、無料の個人ブログでの公開、図版も使えないじゃあ、こんなものである。

子供の頃に観たアニメなり特撮ヒーローなりを、いい歳こいて「真面目に、熱く語る」なんてのは噴飯ものであるが、俺なんて食えない絵描きで舞台美術の裏方やって、小説書いたり脚本書いたり、ちんけな日銭稼ぎに増々困窮とハゲ頭を深めてる戯けた分際である。
そんな俺の矜持は、「俺は、マニアでも、オタクでもない」ということである。
自主制作で映画を作り始めた21歳の頃、

俺「いい歳こいて、何やってんだか?」
友人「そうかといって、いい歳こかなきゃ、できないし・・・」

あの日から、俺は視聴者・消費者から製作者・提供者の自覚を得たのである。
無辜の消費者の視点で良いの悪いのと語る論客は星の数ほど。
されど創造者、提供者の視点で語れる論客は皆無に等しい。ならば、俺は作り手の視点で、先人たちの作品を吟味してみよう。その上で、自らの足跡を後続の子孫のために残そう。前人未到の冒険者たれ。である。
俺のスタンスを明確にしたところで本題に戻る。

作品の総論

良くも悪くも東映特撮ヒーロー物である。
主人公のキャラは借り物とはいえ、悩めるダークヒーローの設定は踏まえつつ、子供向け番組のフォーマットに落とし込んだ手腕には敬服する。この作品が作られた後、本家でもテレビ映画(日本風に言えば2時間ドラマ)で実写スパイダーマンが2本作られている。原作には忠実なのだが、アクションがショボイ。2000年代になってサム・ライミ監督で製作されたスパイダーマン3部作などは、肝心のアクション・シーンがCGである。
CGを否定する訳じゃないが、スパイダーマンの醍醐味は、アクロバティックなボディー・アクションだと俺は考える。
それはサーカスの曲芸にも通じる生身こそが与えられる感動だと思う。オリンピック選手の鍛え上げられた肉体と能力(そこに至るまでの厳しいトレーニングに打ち克つ強い克己心)に惜しみない賞賛を送るように、動物としては、ひ弱で非力にしか生まれ得ない人間という出来損ないの猿であっても、各の如く強く、素早く、躍動できるのだという自信回復の歓びでもある。
とっくに自分の持てる能力の限界を知り尽くして辟易してる大人ではなく、これから増々育ち、益々羽ばたける可能性を秘めた子供に向けた作品という点で評価するなら、俺はこの東映版スパイダーマンは高評価を与える。
(「危ないから真似しちゃダメだ」と親切ぶって抜かすのは、所詮、責任逃れの欺瞞である。ま、口うるさい能無しPTAに対する子供騙しだが)
強く、逞しく、時に迷うことはあっても、決して挫けることのない強い意志を以って初志貫徹するスパイダーマンこと山城拓也という主人公。
(ハンサムで、背が高くて、美人でグラマーな彼女がいて、今すぐあくせく働かなくてもいいくらいの財産は遺してくれた親もいて・・・羨ましいったら、ありゃしない!)
ただ単に拓也が恵まれているだけだったとするなら、ガリアの怨念が辿った地球年にして400年などという時間を待ち侘びることはなかったはずだ。広い宇宙で唯一人、ガリアの意志と能力を託せる人物。時間の概念も生まれた星の違いも超えて、ガリアの言う「友達」になれる存在。
スパイダー星人であるガリアにとっては20年。地球人にとっては400年の歳月を、毒グモの洞窟に閉じ込められたガリアがひたすら探し求め、待ち侘びた「友達」。それが、山城拓也という青年だった。一流のレーサーを夢見る、一見、何の変哲もない若者である。何故、彼が異星人ガリアの「友達」足り得たのか?
人種どころか、生まれ育った星系さえ違うガリアと出会う以前から、拓也にも自我はあった。だが、それは己の欲望や一時の感情に流されるような狭量で身勝手な自我ではない。父や妹や弟、命を分け合ったガリアのみならず、第3話に登場した怪盗001こと岡部のように正道を踏み外した者にさえ、惜しむことなく共感し、厳しく諌め、励まし合えるという慈愛に満ちた善の自我である。
「心正しく生きよ」
自身に問い、他者に問い、教え教えられながら、立ちはだかる苦難にも決して屈することなく立ち向かっていける強い心を持った勇者。その類稀なる資質を持っていたのが、拓也その人であった。

そんな出来過ぎたマンガみたいな人間がいてたまるか!? 当時、まだガキだった俺でさえ鼻白んだものだ。所詮、現実の世界には、子供心にも憧れるカッコイイ大人なんていやしない。だがしかし、だったら自分がそのカッコイイ大人になれば良いだけだ。
もし、どんなに努力しても、自分がそんな大人にはなれなかったとしても、「こういう大人ってのが、カッコイイんだぜ」と、未来への可能性を秘めた子供たちに教えてやれる大人になれば良いのだ。
東映版スパイダーマン全編のストーリーは、そんなメッセージに溢れている。
(義理と人情の時代劇、ヤクザ映画で培われた東映の真骨頂は、アナクロ過ぎるほど浪花節のそれである)
やれ重箱の隅を突いて、話の辻褄が合ってねえじゃねえか? とか、ご都合主義だ、特撮がショボイ、などと作品の上っ面だけを舐めて、すべてを知ったかぶるような浅薄な評論だけはしないで頂きたいと切に願うのであった。

拓也の底抜けな明るさ、屈託のなさ、強さと優しさ。詭弁に逃げるより、行動で顕さねばならない不器用さ。何より悪を憎み、無益な争いを嫌う正義感。そんなヒーローが生まれながらにして備えていなければならない資質の数々を知りたければ、東映版スパイダーマンは、カッコイイ大人を目指す子供やカッコイイ大人になれなかった大人にも、人生とは何かを考える最良の教科書に足り得るであろう。
今現在、世界は波乱に満ちている。抜き差しならない宗教対立であるかのように表層を彩る世相にあって、日本国内では対岸の火事として眺め暮らせるのは、真に幸福である。
その理由の一端は、上述のように、国家や民族、宗教の違いを超えて、個人とは如何に生きるべきかを提示したフィクションに接していたか否かであろうと考える。

未来を生きる子供たちよ。己の人生は辛く厳しいものだとしても、決して挫けるな。誰のせい、何のせいと何物かに責任を押し付けて自らを貶めるな、絶望するな。例え、天がすべてを見放そうとも、躓き転んだ目の前の者に手を差し伸べる勇者たれ。そして、握ったその手を、決して放すな。お前の、もう一方の手は、俺が支えてやる

おわり

スパイダーマン

原作 八手三郎 (マーベルコミックス版「スパイダーマン」より)
連載 テレビマガジン/たのしい幼稚園/テレビランド/おともだち/冒険王

脚本 上原正三

音楽 渡辺宙明
演奏 コロムビア 
 パーカッションアンサンブル
 CQ7010(コロムビアレコード)

主題歌 「駆けろ!スパイダーマン」「誓いのバラード」
 作詞 八手三郎
 作曲 渡辺宙明 
 唄 ヒデ夕樹
コロムビアレコード/ファンファニー

 出演

スパイダーマン/山城拓也 香山浩介(※藤堂新二)

佐久間ひとみ 三浦リカ
山城新子   大山いづみ

山城拓次   矢葺義晴
女ゲリラ、ベラ リエ・ラインハート
女ゲリラ、リタ ワニタ・ソマーボルド

 ジャパンアクションクラブ
  鈴木弘道
  岩城一男
  横山 稔
  益田哲夫

  高橋利道
  岡本美登
  吉田昌雄
  沢田祥二

  喜多川務
  甲斐道夫
  東山茂幸
  藤川 聡
  井口浩水

スパイダーマンアクション 古賀弘文
  黒崎誠輝
  関根直秀
  稲田竜雄

技斗 金田 治 ジャパンアクションクラブ
ナレーター 大平 透

モンスター教授 安藤三男
アマゾネス/吉田冴子
  賀川雪絵

プロデューサー 吉川 進 

撮影 高岩 震
照明 山本辰雄
美術 安井丸男

録音 秋本 彰
編集 望月 徹
効果 原田千昭
選曲 村田好次

助監督 田尻丈人
記録 森 美禮
車輛操作 高橋政生
進行主任 大里俊博

撮影助手 林 迪雄
照明助手 大森康次
キャラクターデザイン/
 企画者104 久保宗雄
キャラクター制作 / エキスプロダクション

特撮 ㈱特撮研究所
美粧 入江美粧
衣裳 東京衣裳
オートバイ協力 スズキ自動車

装置 協和美建
装飾 大晃商会
合成 チャンネル16
現像 東映化学

監督 小林義明

制作 東映 / ㈱東映エージェンシー 


第41話「輝け熱血の勇者」
(脚本 上原正三 / 監督 小林義明) 
あらすじ
・疾駆するGP7、鉄十字団のアジトにマシンガンを連射しながら突っ込んで行く。
・アジトでは、指令室の監視モニタに取り付いていたアマゾネスが迎撃の号令をかける。
・バリケードを築いて迎え撃つ鉄十字団の戦闘員(ニンダー)たち。
・GP7でバリケードを突破するスパイダーマン。
・アジト内部へ単身乗り込んでいくスパイダーマン。
・アマゾネスは、アジトを捨て退却。
・爆発、炎上するアジトから脱出するスパイダーマン。激しい戦闘と爆発によって、手傷を負っている。
・ナレーションによって、スパイダーマンの果てしない戦いが語られる。
・タイトル。
・朝食の支度をしている山城新子「どこ行ってたの? 朝っぱらから」。スパイダーマンこと山城拓也は傷ついた体で帰宅した。
・自室のベッドに倒れるように横たわり苦痛に耐える拓也。そんな兄を心配する妹・新子と弟・拓次。
・鉄十字団の本拠地。アジトのひとつを失ったアマゾネスが、モンスター教授に状況報告に参上する。
・アマゾネスを叱責するモンスター教授。秘密のアジトの存在がスパイダーマンに漏れていたことから、アマゾネスは鉄十字団内部にスパイがいるのでは、と疑問を呈する。
・秘密基地のリストがインターポールに流れているのでは、と女ゲリラの二人は、モンスター教授にインターポール日本支部襲撃作戦を進言する。
・作戦実行を指示されるアマゾネス。その心中には、最近の女ゲリラ二人とモンスター教授との親密さに対する嫉妬にも似た疑念が湧く。
・襲撃されるインターポール日本支部。制圧されたインターポール日本支部に乗り込んだアマゾネスは、秘密基地のリストを探させる。
・だが、日本支部では密告を受けたスパイダーマンが待ち伏せていた。
・退却したアマゾネスは女ゲリラに見当をつける。
・裏切りを問責するアマゾネスを宥めるモンスター教授。アマゾンの奥地に鉄十字団の帝国を築く、その前に一旦、宇宙へ退避し、世界各地に水爆ミサイルを撃ち込む構想を語る。
・鉄十字団の恐るべき野望を邪魔するであろうスパイダーマンの抹殺を、アマゾネスに強く命じるモンスター教授。
・スパイダーマンを倒さぬ限り、新たに築かれる鉄十字団帝国に自分の居場所が用意されないのを察して、アマゾネスは最後の決戦を挑むのであった。
・山城家では、スケートに行こうと誘いに来た恋人の佐久間ひとみと、行こうとせがむ妹弟に、拓也は行かないと駄々をこねている。
・襲撃される山城家。拉致されるひとみ。拓也は抵抗するが妹弟の目の前ではスパイダーマンにはなれい。アマゾネスは拓也に鞭を食らわせ、スパイダーマンに告げろと命じて去る。
(Aパート、ここまで)
・スパイダーマンとなった拓也は、ひとみ救出に向かう。
・ひとみを救出したスパイダーマンだったが、体の変調に苦しむ。アマゾネスの鞭には猛毒が塗られていたのだった。
・スパイダーマンの正体が山城拓也だと見抜くアマゾネス。
・毒に侵され、岬の断崖から海中に転落するスパイダーマン。勝ち誇るアマゾネス。
・虫の息ではあったが、スパイダーマンは生きていた。父とガリアの復讐を果たすまでは死ねなかった。スパイダー能力によって徐々に回復していく。
・アマゾネスが落としていった腕輪の発信機から鉄十字団のアジトを突き止めたスパイダーマン。
・スパイダーマンを倒したと報告に上がったアマゾネスを労うモンスター教授だったが、アジトに現れたスパイダーマンを見て一転、アマゾネスを粛清せよと女ゲリラに命じるのだった。
・女ゲリラの攻撃によって絶命寸前のアマゾネスは、苦し紛れに脱出ロケットに乗り込み、飛び立って行く。
・飛翔するロケットは追撃され、乗っていたアマゾネスも爆散する。
・邪魔な部下が処分できたと喜ぶモンスター教授の前に、宿敵・スパイダーマンが立ちはだかる。
・スパイダーマンVS鉄十字団。今や、決戦の時。
・モンスター教授とスパイダーマンの一騎打ち。(巨大化した教授を、レオパルドンの攻撃で瞬殺)
・戦いを終え、海の彼方に沈む夕日を見つめるスパイダーマン。スパイダーマンは、マスクを脱ぐ。
・復讐を遂げ、鉄十字団の野望を打ち砕いた拓也の、勝利の雄叫びが響く。
(おわり)


感想文
東映版スパイダーマンは、EP1、2、41の3話があれば、作品のテーマはすべて語れる。
EP3以降の各エピソードは、キャラを使ったお遊びに過ぎないと言ったら失礼だが、スパイダーマン以外のヒーローが主役でも成り立つストーリーなのは確かである。
(ドラマツルギーなんてのは、そんな物だ)
本家スパイダーマンが描こうとしたテーマは、「都会の闇と孤独。超能力を持つヒーローであっても、一人の人間として抱えざるを得ない葛藤や苦悩」である。一方の東映版のテーマは「愛と復讐」である。玩具を売らんがなのスポンサーのご機嫌を窺わなきゃならん子供向けのヒーロー番組なのに、主人公が戦う動機が、あくまで個人の復讐というミスマッチ感がたまらない。
本放送時は、俺はまだ子供だったから気付かなかったが、主人公やヒロインたちの年齢が高めということもあって、どことなく大人の如何わしさが漂う画面に、今では別の勘繰りをしたくなるのは、薄汚れた大人になっちまったからだろうか?

小林義明監督の手堅い絵作りとキレの良い演出は流石である。モノローグとナレーションを絶妙に挟んでキャラの内面や情景を語り、冒頭から息つく間もなくスピーディーに畳みかけるような展開、有無を言わせぬ破綻のない語り口は、全くといってツッコミどころがない。俺のようなへそ曲がりには、非常に面白くない。特に最終回を飾るには些か物足りなささえ感じる。上等な職人技を前に、感心はしても、感動が湧かない。小林監督に対して否定的になってるが、さにあらず。放送当時の記憶に残ってるエピソードや場面のほとんどが実の所、小林義明監督が演出した回なのである。
東映版スパイダーマンを観て、カッコイイ!とかスゲエ!!とガキだった俺を喜ばせ、感心させてくれた偉大な監督なのだ。であるからして、上記のあらすじの箱書きにも敬意を表して一切ツッコミは入れていない。(ってか、有無を言わせぬ矢継早な展開にツッコム余裕がない)

次回は、テレビ版の本編では一切説明されない、インターポール日本支部とスパイダーマンの協力関係の始まりを描いた劇場版を取り上げてみよう。