以前、コンビニ弁当の上げ底(ステルス値上げ)が話題になった事がある。
「連日残業してまでも、企業利益を上げつつ、グラム単位で内容量を減らしながらも見た目は維持する誤魔化しに心血を注いでいる」
と訴える。しかし、消費者は、ただのインチキだと一言で切り捨てる。
「血を吐く思いで物作りに心血を注いでいても報われない。企業や労働者が報われないのが悲しきニッポンだ」
と開発担当者は溜息を漏らす。
コンビニ商品開発部の人員は、大きな勘違いをしている。
会社経営陣から褒賞されるのが目的ならば、一円でもコストを下げて利益を上積みするのが正義である。
しかし、彼らの仕事を非難しているのは消費者、即ちコンビニを利用している客である。
客を蔑ろにし、騙し、嘲るかの如き誤魔化しを重ねた結果、ソッポを向かれたに過ぎない。
それとも客の側は、コケにされ、馬鹿にされてもコンビニ運営側を褒め称えねばならない、とでも言うのだろうか?
物作りの悲哀みたいに述べてる後段では、阿漕だろうと利潤追求の何が悪いのか、と開き直ってるだけだ。
「こんな国、駄目だ」とコキ下ろしたいのだろうが、国家や政府のせいにして、どうしたいのだろう。
上の記事から勘繰れば、コンビニの上げ底弁当を行政が主導した、とでも言いたいのだろうか。
コンビニに限らず、国民の労働は極一部を除いて、営利を目論む企業活動による。
大手メディアにとって、コンビニ各社は大事な広告主(金づる、ライフ・ライン)。槍玉に挙がった上げ底弁当で炎上したコンビニを、擁護する記事で鎮火を図ろうとするのはメディアにとっては自然な流れである。
諸悪の根源を他所にでっち上げて矛先を逸らした心算<つもり>だろうが、論拠が斜め上で的外れも良いところ。
既に述べた通り、消費者の利益を蔑ろにした悪徳商売が叩かれるのは当然であり、それを別の何かに責任転嫁するというのは往生際が悪いにも程がある。
勿論、露骨な上げ底容器や見せかけ騙しの手口は目に余るが、納得いかない商品なら買わなければ良いだけだ。
物価上昇の世の中で、「内容量減らしても値段は据え置く努力を褒めてくれ」と言うのなら、姑息な真似などせず正直に値上げをすれば良い。
消費者は値上げ自体に反対しているのではない。間違った努力、頓珍漢な独り善がりに苦言を呈しているのである。
(ゆっくり動画のサブ・カテゴリに「しくじり企業」というのがある。落ちぶれていく企業の典型パターンに嵌まらない事を祈る)
……と、ここまで書いてきたのだが、2020年頃に話題になったコンビニの上げ底弁当案件だが、とうに2年近くを経過した現在。
コンビニの上げ底を取り扱った新聞やテレビ・ニュースは皆無。ネット界隈でも忘れ去られたネタと化している。
そもそも、この記事自体、ニュース・ソース(出典)が不明。ニュース検索してもヒット無し。引用してるSNS等しか出てこない。
上の囲みで引用している文章自体、類似検索でもヒットしないのだから、この記事自体が執筆者の妄想か捏造だろう、と俺は考えている。
(コンビニ+”上げ底”、”騙し”などの複合検索なら、動画やブログ、twitter等、いくつも引っかかるが…言い出しっぺは何処の誰なんだ?)
もっともらしいフェイク・ニュースの伝言ゲームの結果、捏造記事が既成事実化したというのが真相ではなかろうか?
(無論、上げ底容器はフェイクではないが…)
「消費者は値上げには反対していない」と言ったが、正確には「安いに越した事はないが、値段相応であるなら仕方ない」と思っているに過ぎない。
消費者もまた生産・供給側の場合もある。利益を追及する企業の一員であるからには、闇雲に安価を追い求めるのは道理に反するだろう事は百も承知しているはずだ。
対費用効果として、内容と値段が妥当であるなら誰も文句は言うまい。
昨今の風潮を俺なりに解釈するなら、
「どいつも、こいつも、何処を見て、誰の為に何をしているのか?」
と理解に苦しみつつ、先行き不透明な時世に嫌気が差しているのだろう。だからこそ一層の誠実さを求めているのではなかろうか?
正直者が馬鹿を見るような、自分だけが割を食わされているような気がして不安を隠し切れないのだと分析した次第。
貴方は、どう考えるのであろうか?
本題から逸脱するから、章を替える。
マルクスの資本論が考える「労働と人間との理想的な関係」を敷衍するなら、
お互いが支え合う経済活動が貧富の差や個人の能力の差を超えて人間同士を支え合う。
それこそが成熟した資本主義の究極目的であり、社会主義・共産主義(の目的は、公平な富の再分配)は、この成熟した資本主義の成果を土台として成立する。
……と、このように将来の社会構造は理想的に進化していくはずだった。
しかし、実際には、資本主義の成熟を待たずして、暴力革命による階級簒奪を性急に求めた結果、歪<いびつ>な資本主義の構造が再生産されているのが現状である。
「プロテスタンティズムの倫理と資本主義の精神(Max Weber、1904年~1905年)」から引用するなら、
人々は、世俗内において、信仰と労働に禁欲的に励むことによって、社会に貢献した。そして、この世に神の栄光をあらわすことによって、ようやく自分が救われているという確信を持つことができるようになったのである。
しかし、禁欲的プロテスタンティズムが与えた影響は、それだけではない。禁欲的プロテスタンティズムは、「利潤の肯定」と「利潤の追求の正当化」を生み出した。つまり、金儲けに正当性を与えたのである。
(省略) プロテスタンティズムの信仰が、結果として、近代資本主義の誕生させ、それを発展させた。しかし、近代化が進展するとともに信仰が薄れてゆくと(世俗化)、宗教としての色彩が弱まり、利潤追求自体が自己目的化するようになった。また、「内からの動機」に基づくものであった利潤追求が、「外圧的な動機」によるものに変貌していった。
信仰というモラルを失った資本主義は、手段が目的化し、ひたすらな資本増殖と蓄財こそが社会や個人の達成目標となった。……と言うのが、ヴェーバーの唱えた現代資本主義社会の存続の危機
である。
(この風潮は、キリスト教圏だけでなく、日本の江戸時代でも「質素、倹約、貯蓄に励め」という江戸時代の三大改革の主題となっている。禁教のはずのキリスト教的思想が日本に輸入された経緯は研究の価値ありだな)
しかし、歴史的に見ても、日本人に根差す職人気質、労働者意識というものは金銭的価値に重きを置いていない。困難な状況でも皆で知恵を出し合い創意工夫で乗り越え、苦労して手に入れた成果は部族や仲間と共有するのを良しとする。
労働を神から与えられた試練と捉え、理想的な自己実現を神は望んでいると考えるプロテスタンティズムの観点※ ↓からは、原始的で野蛮な愚か者(無信仰・無宗教者)の所業である。
だがしかし、充足や幸福を金銭的価値に置き換えて計る日本人は少なかろう。
また、世の中には、無駄の多い、非効率・不合理な労働であろうと喜んでくれる者の為にと、高い賃金や賞賛の言葉よりも仕事に対する遣り甲斐(利他的行動)を求め、満足感を覚える手合いは案外多いのではなかろうか?
何より、上記において最も忌み嫌われているのは、金(利益追及)に魂を売った拝金主義と人心を欺く利己主義ではなかろうか。
例え創作であろうと、「わらしべ長者」より「一杯のかけそば」に心打たれる精神性は日本人ならずとも人間として当然だろう、とロクデナシの俺でさえ思うのであった。
(美談として世に広めたのもマスコミなら、よせばいいのに作者のスキャンダルや無粋な批判でブチ壊しにしたのもマスコミである。マルクスが標榜した革命とは、創造の為の破壊である。なのに破壊の為の破壊しかしないから腐れ左翼は嫌われるんだぜ)
例によって、戯言が長くなった。
コンビニ弁当の上げ底騒動を振り返ると、他人様の論調は「怪しからん!」「仕方ねえじゃねえか!?」という賛否の応酬に留まるものばかり。
俺は、どちらの意見にも賛同しないが、最後に一言でまとめる。
(「一言で」と言いながら、「四言」も費やす嘘つき野郎であった)
※ ↑(Wikipediaより)
プロテスタントの労働倫理
プロテスタントの労働倫理(プロテスタントのろうどうりんり)または、ピューリタンの労働倫理は、マックス・ウェーバーによる社会学、経済学、歴史学の概念である。天職としての仕事に励むことの必要性、現世での成功、(キリスト教による)魂の救済、ということが強調されており、カルヴァン主義の概念に基づいている。
マルティン・ルターをはじめとするプロテスタントによって、個人と社会全体の利益のために現世で労働に励むことを再概念化することが議論された。そのようにして、カトリック教会における概念である「善行」は、神の恵みの兆候としての労働に対する勤勉性へと明白に変化した。
カトリックは「善行」とは未来の出来事から救済されるためにカトリックにとって必要なことであると教えており、改革派教会は「善行」とはすでに救済を受け入れていることのただの結果だと教えていた。
(本文から削除した文節)
マルクスには申し訳ないが、彼は日本の労働者が歩んだ歴史を知らなかったのであろう。
古代日本では母系制原始社会というムラ(村)社会があり、狩猟・採集と栽培・農耕が遊牧的に循環していた。
勿論、一定の土地に定住する者はいたが、大多数は季節労働者であり、春には春の収穫物があり、夏には…、秋には…、冬には…と季節ごとに住処も労働内容も変化するのである。人間も自然の一部であり、人間を特別な存在と定義する信仰も無かった。
そもそも数十人規模の(主に血縁者からなる)部族集団には専業という概念が無かった。
その証拠に、日本には制度としての奴隷労働や固定された社会・職業の身分階級は定着しなかった。
絶対王政のような権力機構が登場するのは『ヤマト政権』が成立した中世以降であるが、これとて1万数千年以上続いた縄文時代から見れば、つい最近の話である。
固定された身分制度というものも、明治期以降の近代の産物との見方がある。江戸期に古代中国から仕入れた「士農工商」(『管子(B.C.650年頃)』より)という言葉を職業区分としていたものを西洋式の身分制度に当て嵌めたに過ぎない。
その上、四民の区別も便宜上であり、朝廷・幕藩の官僚機構は徹底した実力主義なので、世襲尊重の絶対身分とは言い難い、流動的なものであった。ついでながら武士や公卿の身分は売り買い出来たので、権威や身分を振りかざす手合いに対して庶民の側は面従腹背。陰口、冷やかしの対象でしかなかった。「お天道様は見てらっしゃる」という言葉が持つ意味は、意味深長といったところだ。
このように近代史を紐解く政治・経済の視点そのものが、先鋭的に偏向した浅薄なものでしかない点に注意するべきであろう。
この節を削除した理由は、文献(文字)としての記録がない古代日本の歴史を引き合いに出しても論拠に詰まる。また、根深い宗教観念を起点とする欧州の識者の論議に、明確な教義を持たない日本の宗教観では検証も反証も対等の立場とは言えない。←論争は対等の立場の者同士でしか成立しない。
「古事記」「日本書紀」編纂の理由は、ヤマト政権、権力の正当性を示す為というのが教科書的見解だが、大陸との交易・外交に当たって、歴史問題というものが背景にあったと俺は考えている。
時代は奈良、平安と移り変わり、大陸から仏教や漢字といった文化を輸入する一方、対外的に対等な立場である事を表明しなければならなくなった。それによって国内だけでなく、国外に対しても自国の正史として文書化された証拠を示す必要性を迫られた結果、各地に残る口承や口伝を掻き集めた結果、風土記や日本書紀などは複数の見解が併記されるに至ったと推察している。
以前の記事で取り上げた「ゆっくり動画」の歴史カテゴリーで取り上げたチャンネル内で、古事記と日本書紀を併読するという試みから発想したのだが、そもそも”国史編纂の必要性とは、背景にどんな事情があったのだろうか?”と考えた結果、ミクロとマクロ、国内と国外との事情があったのではないかと思い至った次第。
それは現代においても、韓国がウリナラ・ファンタジーをでっち上げてでも5千年の歴史を持つ朝鮮民族の正統性、正当性を主張せざるを得ない現代の事情と同じではないか? と言ったら、在日はじめ半島人と日本に巣食うパヨク連中は盛大にヒステリーを起こすかな?
コンビニ弁当という他愛もない発端から、社会心理学や政治、経済、歴史、宗教・・・と縦横無尽に広大なフィクション(真実)を捻り出すのが物書き根性である。(しょーもな)
草稿の段階でも長すぎて4章に分割したくらい冗長だった。泣く泣く切り詰めて推敲した本記事の第1章と第2章の末尾の総論部分だけで終わらせても良かったが、「一年半以上かけて練ってきたネタをブッタ切りで終わらせるのは勿体ない」という筆者の貧乏性が露呈したところで、この記事は終わりである。お疲れ様でした。
(ここまでくると「記事」ではなく「論文」になってしまうが、肩書の無い素人には発表の場が無い。中途半端なインテリが新興宗教に嵌まる理由が理解できなくもない。ヤバイ、やばい…)














