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こんなページでも寄ってらっしゃい

 以前、コンビニ弁当の上げ底(ステルス値上げ)が話題になった事がある。

 商品開発の現場担当は、
「連日残業してまでも、企業利益を上げつつ、グラム単位で内容量を減らしながらも見た目は維持する誤魔化しに心血を注いでいる」
と訴える。しかし、消費者は、ただのインチキだと一言で切り捨てる。
「血を吐く思いで物作りに心血を注いでいても報われない。企業や労働者が報われないのが悲しきニッポンだ」
と開発担当者は溜息を漏らす。

 コンビニ商品開発部の人員は、大きな勘違いをしている。
 会社経営陣から褒賞されるのが目的ならば、一円でもコストを下げて利益を上積みするのが正義である。
 しかし、彼らの仕事を非難しているのは消費者、即ちコンビニを利用している客である
 客を蔑ろにし、騙し、嘲るかの如き誤魔化しを重ねた結果、ソッポを向かれたに過ぎない。
 それとも客の側は、コケにされ、馬鹿にされてもコンビニ運営側を褒め称えねばならない、とでも言うのだろうか?

 

 物作りの悲哀みたいに述べてる後段では、阿漕だろうと利潤追求の何が悪いのか、と開き直ってるだけだ。
「こんな国、駄目だ」とコキ下ろしたいのだろうが、国家や政府のせいにして、どうしたいのだろう。
 上の記事から勘繰れば、コンビニの上げ底弁当を行政が主導した、とでも言いたいのだろうか。
 コンビニに限らず、国民の労働は極一部を除いて、営利を目論む企業活動による。
 大手メディアにとって、コンビニ各社は大事な広告主(金づる、ライフ・ライン)。槍玉に挙がった上げ底弁当で炎上したコンビニを、擁護する記事で鎮火を図ろうとするのはメディアにとっては自然な流れである。
 諸悪の根源を他所にでっち上げて矛先を逸らした心算<つもり>だろうが、論拠が斜め上で的外れも良いところ。
 既に述べた通り、消費者の利益を蔑ろにした悪徳商売が叩かれるのは当然であり、それを別の何かに責任転嫁するというのは往生際が悪いにも程がある。
 勿論、露骨な上げ底容器や見せかけ騙しの手口は目に余るが、納得いかない商品なら買わなければ良いだけだ。
 物価上昇の世の中で、「内容量減らしても値段は据え置く努力を褒めてくれ」と言うのなら、姑息な真似などせず正直に値上げをすれば良い。
 消費者は値上げ自体に反対しているのではない。間違った努力、頓珍漢な独り善がりに苦言を呈しているのである。
(ゆっくり動画のサブ・カテゴリに「しくじり企業」というのがある。落ちぶれていく企業の典型パターンに嵌まらない事を祈る)

 

 ……と、ここまで書いてきたのだが、2020年頃に話題になったコンビニの上げ底弁当案件だが、とうに2年近くを経過した現在。
 コンビニの上げ底を取り扱った新聞やテレビ・ニュースは皆無。ネット界隈でも忘れ去られたネタと化している。
 そもそも、この記事自体、ニュース・ソース(出典)が不明。ニュース検索してもヒット無し。引用してるSNS等しか出てこない。
 上の囲みで引用している文章自体、類似検索でもヒットしないのだから、この記事自体が執筆者の妄想か捏造だろう、と俺は考えている。
(コンビニ+”上げ底”、”騙し”などの複合検索なら、動画やブログ、twitter等、いくつも引っかかるが…言い出しっぺは何処の誰なんだ?)

 もっともらしいフェイク・ニュースの伝言ゲームの結果、捏造記事が既成事実化したというのが真相ではなかろうか?
(無論、上げ底容器はフェイクではないが…)

「消費者は値上げには反対していない」と言ったが、正確には「安いに越した事はないが、値段相応であるなら仕方ない」と思っているに過ぎない。
 消費者もまた生産・供給側の場合もある。利益を追及する企業の一員であるからには、闇雲に安価を追い求めるのは道理に反するだろう事は百も承知しているはずだ。
 対費用効果として、内容と値段が妥当であるなら誰も文句は言うまい。
 昨今の風潮を俺なりに解釈するなら、
「どいつも、こいつも、何処を見て、誰の為に何をしているのか?」
と理解に苦しみつつ、先行き不透明な時世に嫌気が差しているのだろう。だからこそ一層の誠実さを求めているのではなかろうか?
 正直者が馬鹿を見るような、自分だけが割を食わされているような気がして不安を隠し切れないのだと分析した次第。
 貴方は、どう考えるのであろうか?


 本題から逸脱するから、章を替える。

 マルクスの資本論が考える「労働と人間との理想的な関係」を敷衍するなら、

 企業は、そこで働く従業員(とその家族)の生活を支え、社会活動の潤滑油として他者(他社)を支える。
 お互いが支え合う経済活動が貧富の差や個人の能力の差を超えて人間同士を支え合う。
 それこそが成熟した資本主義の究極目的であり、社会主義・共産主義(の目的は、公平な富の再分配)は、この成熟した資本主義の成果を土台として成立する。

 ……と、このように将来の社会構造は理想的に進化していくはずだった。
 しかし、実際には、資本主義の成熟を待たずして、暴力革命による階級簒奪を性急に求めた結果、歪<いびつ>な資本主義の構造が再生産されているのが現状である。
プロテスタンティズムの倫理と資本主義の精神(Max Weber、1904年~1905年)」から引用するなら、

人々は、世俗内において、信仰と労働に禁欲的に励むことによって、社会に貢献した。そして、この世に神の栄光をあらわすことによって、ようやく自分が救われているという確信を持つことができるようになったのである。
しかし、禁欲的プロテスタンティズムが与えた影響は、それだけではない。禁欲的プロテスタンティズムは、「利潤の肯定」と「利潤の追求の正当化」を生み出した。つまり、金儲けに正当性を与えたのである。
(省略) プロテスタンティズムの信仰が、結果として、近代資本主義の誕生させ、それを発展させた。しかし、近代化が進展するとともに信仰が薄れてゆくと(世俗化)、宗教としての色彩が弱まり、利潤追求自体が自己目的化するようになった。また、「内からの動機」に基づくものであった利潤追求が、「外圧的な動機」によるものに変貌していった。

 信仰というモラルを失った資本主義は、手段が目的化し、ひたすらな資本増殖と蓄財こそが社会や個人の達成目標となった。……と言うのが、ヴェーバーの唱えた現代資本主義社会の存続の危機である。
(この風潮は、キリスト教圏だけでなく、日本の江戸時代でも「質素、倹約、貯蓄に励め」という江戸時代の三大改革の主題となっている。禁教のはずのキリスト教的思想が日本に輸入された経緯は研究の価値ありだな)

 しかし、歴史的に見ても、日本人に根差す職人気質、労働者意識というものは金銭的価値に重きを置いていない。困難な状況でも皆で知恵を出し合い創意工夫で乗り越え、苦労して手に入れた成果は部族や仲間と共有するのを良しとする。
 労働を神から与えられた試練と捉え、理想的な自己実現を神は望んでいると考えるプロテスタンティズムの観点※ ↓からは、原始的で野蛮な愚か者(無信仰・無宗教者)の所業である。
 だがしかし、充足や幸福を金銭的価値に置き換えて計る日本人は少なかろう。
 また、世の中には、無駄の多い、非効率・不合理な労働であろうと喜んでくれる者の為にと、高い賃金や賞賛の言葉よりも仕事に対する遣り甲斐(利他的行動)を求め、満足感を覚える手合いは案外多いのではなかろうか?
 何より、上記において最も忌み嫌われているのは、金(利益追及)に魂を売った拝金主義と人心を欺く利己主義ではなかろうか。

 例え創作であろうと、「わらしべ長者」より「一杯のかけそば」に心打たれる精神性は日本人ならずとも人間として当然だろう、とロクデナシの俺でさえ思うのであった。
(美談として世に広めたのもマスコミなら、よせばいいのに作者のスキャンダルや無粋な批判でブチ壊しにしたのもマスコミである。マルクスが標榜した革命とは、創造の為の破壊である。なのに破壊の為の破壊しかしないから腐れ左翼は嫌われるんだぜ)

 例によって、戯言が長くなった。
 コンビニ弁当の上げ底騒動を振り返ると、他人様の論調は「怪しからん!」「仕方ねえじゃねえか!?」という賛否の応酬に留まるものばかり。
 俺は、どちらの意見にも賛同しないが、最後に一言でまとめる。

 

「薄っぺらな讒言<ざんげん>しか言えないなら、黙ってやがれ」

(「一言で」と言いながら、「四言」も費やす嘘つき野郎であった)

 

 


※ ↑(Wikipediaより)

 

プロテスタントの労働倫理

プロテスタントの労働倫理(プロテスタントのろうどうりんり)または、ピューリタンの労働倫理は、マックス・ウェーバーによる社会学、経済学、歴史学の概念である。天職としての仕事に励むことの必要性、現世での成功、(キリスト教による)魂の救済、ということが強調されており、カルヴァン主義の概念に基づいている。
マルティン・ルターをはじめとするプロテスタントによって、個人と社会全体の利益のために現世で労働に励むことを再概念化することが議論された。そのようにして、カトリック教会における概念である「善行」は、神の恵みの兆候としての労働に対する勤勉性へと明白に変化した。
カトリックは「善行」とは未来の出来事から救済されるためにカトリックにとって必要なことであると教えており、改革派教会は「善行」とはすでに救済を受け入れていることのただの結果だと教えていた。

(本文から削除した文節)

 マルクスには申し訳ないが、彼は日本の労働者が歩んだ歴史を知らなかったのであろう。
 古代日本では母系制原始社会というムラ(村)社会があり、狩猟・採集と栽培・農耕が遊牧的に循環していた。
 勿論、一定の土地に定住する者はいたが、大多数は季節労働者であり、春には春の収穫物があり、夏には…、秋には…、冬には…と季節ごとに住処も労働内容も変化するのである。人間も自然の一部であり、人間を特別な存在と定義する信仰も無かった。
 そもそも数十人規模の(主に血縁者からなる)部族集団には専業という概念が無かった。
 その証拠に、日本には制度としての奴隷労働や固定された社会・職業の身分階級は定着しなかった。
 絶対王政のような権力機構が登場するのは『ヤマト政権』が成立した中世以降であるが、これとて1万数千年以上続いた縄文時代から見れば、つい最近の話である。
 固定された身分制度というものも、明治期以降の近代の産物との見方がある。江戸期に古代中国から仕入れた「士農工商」(『管子(B.C.650年頃)』より)という言葉を職業区分としていたものを西洋式の身分制度に当て嵌めたに過ぎない。
 その上、四民の区別も便宜上であり、朝廷・幕藩の官僚機構は徹底した実力主義なので、世襲尊重の絶対身分とは言い難い、流動的なものであった。ついでながら武士や公卿の身分は売り買い出来たので、権威や身分を振りかざす手合いに対して庶民の側は面従腹背。陰口、冷やかしの対象でしかなかった。「お天道様は見てらっしゃる」という言葉が持つ意味は、意味深長といったところだ。
 このように近代史を紐解く政治・経済の視点そのものが、先鋭的に偏向した浅薄なものでしかない点に注意するべきであろう。

 この節を削除した理由は、文献(文字)としての記録がない古代日本の歴史を引き合いに出しても論拠に詰まる。また、根深い宗教観念を起点とする欧州の識者の論議に、明確な教義を持たない日本の宗教観では検証も反証も対等の立場とは言えない。←論争は対等の立場の者同士でしか成立しない。
古事記」日本書紀」編纂の理由は、ヤマト政権、権力の正当性を示す為というのが教科書的見解だが、大陸との交易・外交に当たって、歴史問題というものが背景にあったと俺は考えている。
 時代は奈良、平安と移り変わり、大陸から仏教や漢字といった文化を輸入する一方、対外的に対等な立場である事を表明しなければならなくなった。それによって国内だけでなく、国外に対しても自国の正史として文書化された証拠を示す必要性を迫られた結果、各地に残る口承や口伝を掻き集めた結果、風土記や日本書紀などは複数の見解が併記されるに至ったと推察している。

 

 以前の記事で取り上げた「ゆっくり動画」の歴史カテゴリーで取り上げたチャンネル内で、古事記と日本書紀を併読するという試みから発想したのだが、そもそも”国史編纂の必要性とは、背景にどんな事情があったのだろうか?”と考えた結果、ミクロとマクロ、国内と国外との事情があったのではないかと思い至った次第。
 それは現代においても、韓国がウリナラ・ファンタジーをでっち上げてでも5千年の歴史を持つ朝鮮民族の正統性、正当性を主張せざるを得ない現代の事情と同じではないか? と言ったら、在日はじめ半島人と日本に巣食うパヨク連中は盛大にヒステリーを起こすかな?

 

 

 コンビニ弁当という他愛もない発端から、社会心理学や政治、経済、歴史、宗教・・・と縦横無尽に広大なフィクション(真実)を捻り出すのが物書き根性である。(しょーもな)
 草稿の段階でも長すぎて4章に分割したくらい冗長だった。泣く泣く切り詰めて推敲した本記事の第1章と第2章の末尾の総論部分だけで終わらせても良かったが、「一年半以上かけて練ってきたネタをブッタ切りで終わらせるのは勿体ない」という筆者の貧乏性が露呈したところで、この記事は終わりである。お疲れ様でした。
(ここまでくると「記事」ではなく「論文」になってしまうが、肩書の無い素人には発表の場が無い。中途半端なインテリが新興宗教に嵌まる理由が理解できなくもない。ヤバイ、やばい…)

 

 

メディア・リテラシーとは、民主主義社会におけるメディアの機能を理解するとともに、あらゆる形態のメディア・メッセージへアクセスし、批判的に分析評価し、創造的に自己表現し、それによって市民社会に参加し、異文化を超えて対話し、行動する能力である。また、用語としてのメディア・リテラシーはメディア・リテラシーの実践や運動を含む。

ライン・ニュースの9割が都道府県別のコロナ感染者数の発表で占められ一年数か月…。
感染者数が「増えた!(大声)\(^o^)/」「減った…(小声)_l ̄l○」と大騒ぎするが、実際のところ他の感染症との比較は皆無、重症化率や死亡率は不明
いい加減ウンザリしてるんだが、マスコミ報道は、いつまでコロナで騒ぎ続ける気なのか?
事件・事故・災害政界・芸能スキャンダルといった大衆の好奇心や不安を煽るようなニュース報道の価値が低下しているのは誰の目にも明らかとなり、報道機関が持っていた唯一の情報発信者としての地位が、ネットの普及で揺らいでる現在、既得権益を死守せんとする報道各社の必死さが滲み出ている。
さて、過去に起きた出来事のその後を追跡取材するとか、定着した常識を疑い異議を唱えるような問題提起が十分になされているのだろうか?
世の中、人間の所業はキレイもキタナイも玉石混交、清濁併せて功罪こもごも。それらの真実にスポットを当てて『虚実ない混ぜて』物語る物書きの仕事に対して、報道の仕事とは『事実の究明』にある。
にもかかわらず、報道が我こそ正義なりと得意顔で「真実、真実は如何に!?」と喧伝している様態<さま>は本末転倒ではなかろうか。
リテラシーというものは他者に強要するものではなく、自身に言い聞かせる訓辞であろう。

 新年が明けて早2週間。
 遅ればせながら、おめでとうございます。

 さて、この年末年始は、低温やら降雪やらで大混乱…したらしい。
 寒いのは冬なんだから当たり前。俺の住む地域は、今のところ、暖冬続きの例年と大差ない。

 さてさて、余談になるが元旦から二日にかけての初夢の話をしよう。果たして、縁起が良いとされる『一富士、二鷹、三茄子』の夢は見れたのか?

 場所は、高原のキャンプ場。巨大な岩山の洞窟がキャンプ・サイトに割り当てられている。
 集団登山みたいな一団に参加してる俺。他の参加者は、おおよそ20代半ば以降。戦闘服こそ着用していないが、まるでアルプス・レンジャーのサバイバル訓練のようだ。しかし、軍隊でないのは参加者の素振りから民間人だと分かる。
 バブル崩壊後の社員研修所で補助教官やってたのを思い出した。
(そういう設定の夢か、と夢の中で夢だと自覚しつつ、納得する俺)

 

 このキャンプ場の特色は、自律ロボット(AI搭載ドローン)によって管理されている事。
 ゴミの片付け、焚火などの消火が自動で行われてるらしい。
(近未来SFじみてるが、所詮、夢だからね)

 

 なんやかんやと洞穴の岩陰の窪みに寝床を設え、夕食の支度をしようと広場のテーブルに行き、缶入り固形燃料に点火して鍋で湯を沸かす。
 湯が沸き、インスタント・ラーメンを煮る。リュックの中にウイスキーがあったのを思い出し、取りに行く。
 バカでっかいハエのように、頭上をドローンが行ったり来たりしている。
 嫌~な予感がして鍋の所へ戻ると、固形燃料の缶は無く、生煮えのラーメン鍋だけが地面に転がっていた。
 くされロボットの仕業だと直感して、隣りのブースの奴の所へ行ってみた。そちらでは地面に掘った竃<かまど>穴に取り付いて必死に火を起こしていた。それを手伝おうと、薪<たきぎ>を探すが辺りには小枝や落ち葉ひとつ落ちていない。
「何か燃やす物、探してくる」
と、俺は洞穴の外に出ようと一旦、自分の荷物の所へ。が、リュックの中身がぶちまけられ、散乱していた。
 荷物の中から、刃渡り12インチの大型ナイフが消えていた。俺は、踏んだり蹴ったりの状況に腹を立てつつ、ひとまず外に出た。
 外に出て、出くわした奴らに話を聞きながら、ドローンたちのゴミ捨て場と管理棟の場所を見当つける。

(途中、省略)

 ここは管理棟の内部。俺たちは通路側にいて、防弾ガラス越しにサーバーやら液晶モニター・パネルがパチンコ屋の店内のように並んだ制御室を見ている。
 モニターに向かっているのは、琥珀色をした、のっぺらぼうのマネキンのような人型ロボットたち。次々と隣りのモニターに移動しながら、モニターそれぞれに直結されたドローンに指示を出している。
「……要するに、ドローンやロボットの制御が出来なくなってる、って事だな。それと俺のナイフが、どう関係する?」
 俺は、隣りのリーダー格らしき男に詰め寄る。
 この一緒にいる人間たちから盗まれたナイフは取り戻したが、ナイフを貸さないなら俺に手を貸せという話らしい。
 オペレーター・ロボットを守るセンサーを避けて、液晶モニターの背後から、モニター画面ごとオペレーターを刺し貫くには俺のナイフが必要だと言うのだ。
「アホくさい。この設備の電源を全部落とせば済む話じゃないか」
「自家発電の原子炉(正確には原子力電池)は地下にあって、電源ケーブルも頑丈なコンクリートに埋設されてる。メイン・ブレーカーを管理してるのもオペレーターなんだが、そいつを一撃で仕留めない限り・・・」
 自己修復、自律行動可能なロボットによって原子炉の核燃料が尽きるまでの数十年間、完全無人で運用されて、その後は地中埋設状態で無期限放置する設計なのだという。
完全無人が原則の施設なので侵入者は警告なしで排除される。

 放射線遮蔽の鉛・重力コンクリート構造なので、ドローン、ロボット間の通信にWifiが使えない。液晶モニターを通して画像(QRコードか?)で情報交換しているので、モニターを見ている通信中しか攻撃のチャンスはない。そして、モニターの背後が取れるのも、この場所しかない。

 

 液晶モニターの厚みは7cm。通信中のロボットは画面の表面から4cmの焦点距離に顔面の光学センサーを近付ける。
 頭部の視覚・光学センサーを同時に破壊するには12インチ(30cm)以上の長さが必要。大口径のライフルでも破壊可能だが、この国では玩具の銃にすらケチをつける。
 液晶モニターの外装ABS樹脂回路基板ガラス液晶パネル、分厚いポリレキサン樹脂の甲殻に充填されたシリコーン・ゲルで保護されたロボット頭部内の回路ボックスを一撃で貫通・切断できるような刃物は、ここには俺の自作した特製ナイフしかないという。
 褒められて悪い気はしないが、虫の良い話だ。M2HB-0.50口径(12.7mmx99)M20徹甲弾を米軍なり自衛隊に撃ってもらえば? 某・野党が全力で邪魔するか。

 

「機械に全ての管理を委ねるにしても、安全装置にまで知恵が及ばなかった時点で終わってるだろう。自称・テクノクラート、自画自賛の高学歴エリート官僚どもの知恵の結晶が聞いて呆れる。自国防衛どころか自衛用の武器さえ禁じてるクソな国だしな」
平和万歳主義。これこそ無能化教育の賜物だ」
「おめでたいのは、腐れ左翼の頭ん中だけにしてくれ。俺は、ゴメンだね。人が人を信用できないような国家なら勝手に滅びるがいい!ヒトラー、スターリン、毛沢東、ポル・ポト・・・キチガイ左翼は独裁者しか生まん!!

 最後のセリフを途中から寝ぼけ半分で吠えたところで目が覚めた。なので続きは不明。
 新年早々、クソ面白くもない初夢にうなされて目覚めるなんて、お先真っ暗だわな。

 

 設定が一々細かいのは、各種の性格診断テストにおいて「完璧主義者」と評される俺の性分だから仕方ない。それでもストーリーとディティールは相当、端折ってる。

 

 ―――しかし、夢の中とはいえ、メシを食いっぱぐれた挙句、厄介事(他人の尻拭い)に巻き込まれるってのは、現実での俺の日常そのもの。笑えない。
 ま、たかが夢の話である。世の中には、夢と現実の区別が出来ない『困ったちゃん』も多い。その点では、夢だと自覚があるだけマシである。


 結論:「岩山」が富士山(の溶岩洞窟)、「ドローン」が鷹、「のっぺらぼうロボット」が茄子か…?
 無理矢理こじつけても、俺の初夢は大ハズレなのであった。

 

 最近は、『YouTube』で「ゆっくり動画」をよく観てる、と以前に書いた。
 ブラウザにブックマークしてある動画のタイトルは、ざっと以下の通り。

  • 『闇の雑学』をゆっくり解説
  • 【ゆっくり解説】9割が知らない雑学
  • 【動画解説】歴史チャンネルTF Movie
  • いろはch
  • しまむらいだーのお部屋【ゆっくり解説】
  • ゆっくりするところ
  • ゆっくりぽどすchannel
  • ゆっくりゴシップちゃんねる
  • ゆっくり解説『不思議の雑学』
  • ゆっくり未来channel
  • ゆっくり歴史グルメ
  • よつばch
  • らいとのゆっくり解説
  • るーいのゆっくり科学
  • カカチャンネル
  • ジャックのゆっくり解説室
  • ダークぱんだ【ゆっくり解説チャンネル】
  • 生物学チャンネルロッキーの
  • 闇世界のツーリスト【ゆっくり解説】
  • 希ガスchannel【ゆっくり解説】
  • 雑学ミステリー通信
  • 四獣チャンネル
  • 武器屋のおねえさん
  • 裏しまたろう【ゆっくり解説チャンネル】
  • ・・・その他、省略・・・

 …と、最近閲覧した動画は、こんなところ。
 この手の動画には好悪もあるだろうから、わざわざリンクは貼らない。ツベの検索窓に「ゆっくり」とでも打って、自分好みの動画を探しておくれ。
 寝落ちしてる間も流しっ放し。地球に優しくない生活スタイルだな。オカルト、ミステリー物だと(睡眠中の)夢の中にも侵食してくるから、サイケな夢が見れるぞ。
(グルメとエロは目覚めた後、非常に空虚<むな>しくなる…)

 

 政治、グルメ、オカルト・都市伝説、事件・事故、科学、雑学、兵器、歴史…ゆっくり解説動画のジャンルは多岐に亘る。
 中には、更新が遅いとか、内容が企業案件寄りになってアザトクなったりと観なくなったのも多い。
 閲覧履歴をみると更新が盛んなジャンルは、事件・事故、オカルト、嫌韓モノが顕著になってきた。
 但し、真面目なだけの解説動画では学習教材と区別がつかない。ドキュメンタリーなら、それで良いのだが、『ゆっくり』はエンターテイメント。歌舞伎や落語などでいう「くすぐり」が必要だ。
 オマケに、厄介な事だが、ネタが被ったりするとツベの規約で安直な転載(パクリ)だと見做されて収益剥奪とかあるし。
 ネトウヨ、パヨクのアジテーションも氾濫するが、あれは見苦しいだけで動画のラストまで観た例<ためし>がない。中身が知的好奇心をそそるでもなく、ひたすら誹謗中傷のみで嫌気が差してくる。表現の自由を履き違えた愚者の自己満足(プロパガンダの失敗)だ。
 芸能人(ファン向け、ゴシップ・スキャンダル等)の動画となると、興味が無けりゃあ退屈なだけ・・・
(舞台美術の裏方やってた俺の事。芸能人は売り物、飯のタネ。俺の稼ぎにならんのに、奴らを稼がせてやる義理は無い。そもそも俺の仕事が減ったのは…)

 

 

 上掲の動画リストから、一部だけ簡単に感想を紹介する。

 

 

しまむらいだーのお部屋」は、ゲーム実況だった頃からチェックしていた。
 ガキの頃からミリタリー・銃器マニアなので、初期の『War Thunder』(大規模多人数参加型オンライン-MMO-・コンバットゲーム)のプレイ実況や「珍珍兵器」シリーズが俺の好みだった。それが、いつの間にか政治系漫談になっていた。
 収益化のマイナス面なのか、毎日動画をアップしなきゃならんせいか、粗製乱造とまでは言わないがマンネリ化は免れない。ダイアログ(対話の台詞)の切れが悪くなったのが残念。

 

 

ゆっくりゴシップちゃんねる」は、去年の秋くらいに見つけて以来追っかけているのだが、どこかで見た(聞いた)ようなテーマを取り上げている。
 初めて観た時には、思わず自分のノート(ネタ帳)を開き直したものである。世の中、似たような思考パターンを持つ奴がいるものだ。
(動画時間が長いのも、誰かの駄文そっくり…)
 ただ、引用がニュースやSNS、Wikipediaといったネット・メディアに限られるのが残念だ。自分の足で取材したネタがあれば説得力も増すのだが、買ってきたニュースを自力取材であるかのように謀<たばか>る昨今のマス・メディアと変わらない。諺にある目糞、耳糞を笑うなんてオチは歓迎しない。
(素人なんだから、無茶言うなってか? 素人だろうが、玄人だろうが、自分だけは逃げ道を確保して、他人を嘲<あざけ>り、貶<けな>すってのは卑怯者のする事だ。評価も厳しくなるさ)

 

 

 オカルト系では「四獣チャンネル」の白虎ちゃんがカワイイなと。そう言えば、かつてピグで飼っていた「白トラサキ」は、どうしているのやら?
 最近、東方projectの魔理沙と霊夢の饅頭キャラの使用を止めて、オリジナルのキャラに切り替えたうぷ主もチラホラと見かける。収益剥奪やら削除やら、つべのAI監視(ヘイト、著作権)とのバトルもあろうが、見た目からして(フォーマット自体)他人のフンドシで相撲を取ってる以上、仕方のない部分もある。
 ニコ動から始まった「ゆっくり」文化は繁栄するのか、または淘汰されるのか?
 過去のメディアがそうであるように、ネットも永続する保証は無い。幾多の流行り廃り、栄枯盛衰を目の当たりにしてきた中高年の俺としては、お気楽な一視聴者として見守らせてもらおう。

 

 

 さて、間もなく冬本番。体調管理は勿論だが、ちょいと嫌な予想ではあるが、この冬は寒さが厳しいようだから、何かとご用心されたし。
 これで今年は最後の記事になる。次回は、いつになるやら。
 ま、ちと早いが「メリー・クリスマス。良いお年を。明けまして、おめでとう」。

 

 

 

 先日のキャッシュ・クリアに引き続き、2014年の新聞スクラップを発掘したので、お披露目するとしよう。年末を控えた棚卸だと思ってくれ。


 2014年の新聞の切り抜き(スクラップ・ノート)から…

科学のポケット(「信濃毎日新聞」2014/03/24)

シカの増加と世界人口

 現在の世界人口をご存じだろうか。このコラム掲載時には71億7200万人をこえているだろう。数年前に70億人を超えたとき、世界各地でそれを祝う映像に複雑な気持ちがした。
 生態学に環境収容力という概念がある。シカの個体数管理にもよく使われるが、資源の限られた一定範囲の環境の中で生息できる生物の最大量である。シカの場合、餌となる植物量に対して最大何頭のシカが生息可能かを示す。環境収容力を超えてシカが増えると、餌不足になり、シカ自体もやせていく。そして急激な個体数の減少(クラッシュ)が起こる。
 たいていの生物は、捕食されたり、同種内での競争があったりするため、個体数が環境収容力の限界にまで達することはない。しかし、シカは餌をめぐっての競争が少なく、また捕食者がいない現状では、クラッシュを起こしやすい。このような種を「共倒れ型」という。
 人間が環境に与える負荷を数値化したエコロジカル・フットプリントという指標がある。一人当たりの生活(食料、使用エネルギー等)を維持するのに必要な陸地・水域の面積として示されるこの指標を用いて、近年、人間活動が地球の環境収容力内に収まっているかどうかが議論されている。日本は世界平均の2倍で、全世界の人が日本人のような生活をすると 地球2.3個分が必要になるという。人類は現在、地球1.5個分の資源が必要な生活をしている。
 シカの増加問題を考える時、世界人口の増加に伴う問題が頭をよぎる。食料や資源・エネルギーの問題にしても、水不足にしても、共通するものがありはしないか。シカの増加の行き着く先は共倒れだが、人類の場合は、人間のみならず地球規模の生態系のカタストロフィー(破滅)が起こるに違いない。
 この欄で2年間、信州の生き物たちのことを書いてきた。昨今の生き物事情を反映してか、なかなか楽しい話題を提供することができなかったのは残念だ。今後も変わりゆく自然を、そして変わらない自然を見据えていきたい。

 福江 佑子 [NPO法人「生物多様性研究所あーすわーむ」(軽井沢町)主任研究員]

 この記事を読むにつけ、IPCCがCO2削減だの何だのと主張してるのがナンセンスだとわかる。100年前の気象データを基準にしてCO2が増えてるだのと抜かすが、総人口が約20億で、主要な熱源が石炭や薪だった時代の話である。
 現在では、総人口は3.5倍に増加している。それだけで排出されるCO2も3.5倍なのだ。人間、生きて呼吸してるだけでCO2を排出してるんだから、国際会議で1990年を基準にして、現在の排出量を6パーセント(94%に)削減しろ、という根拠も・・・馬鹿じゃねえのか!?
 だったら、人間の数を減らせよ。24年前を基準にするなら、当時の世界人口は約53億人だ。現在生きてる人間を20億人は殺さなきゃならんという事だ。
 人間の数が減れば、CO2排出量も同様に減る。あの手この手と策を弄するより、容易にCO2削減が実現できて、お釣りがくる。
(それじゃあ儲からないから世の資本家どもは子飼いの手先を使って文句を垂れさせて、ゴネまくる・・・環境問題を騙るペテン師の手口だ。ちなみに、俺は、環境問題を山車<だし>にホモ・サピエンス絶滅を目論むエコ・テロリストに過ぎない)

 人間は、集団を作って生活する動物だが、その集団が無難に機能する規模は、片手の指折り数えて余るくらいが限度である。
 子沢山の大家族のドキュメンタリーがあったが、血を分けた親兄弟姉妹でさえ、血で血を洗う凄惨極まりない事態が日常茶飯事である。それが赤の他人同士の集団ともなれば、試さずとも結果は目に見えてる。
 全体6割の頭数を減らせば、(腹六分目じゃないが)皆が余力を残せる。余裕があれば、金持ち喧嘩せずの譬え通り、寛容と慈愛に満ちた人生を享受できるかも・・・

 問題なのはエコロジーではなく、個々人のエゴイズムである。


 今年前半にも同様の内容で記事を書いた気がするが、上記の新聞記事引用後の自論はIPCC第5次評価報告書が完成した2014年10月31日以降(年末の12月)に記したものである。
(今後、一部では、温暖化防止なりの社会運動を否定すると社会的に抹殺されるそうだ。新手の魔女狩りだな。ならば今の内に全部吐き散らしておこう)

 今さらだが、人間社会というヤツは真に異常だ。自然との共生と言いつつ、不自然極まりない生態に固執する。厭世主義が幅を利かせ、他者を攻撃することでしか自身の存在意義を見い出せない。鬱病のような社会病理に突き動かされて、一切の楽観を許さない。
 自分で自分の首を絞めながら、何故苦しいのか?と泣き喚いている。馬鹿め、愚か者と一笑に付すのも手だが、俺のオススメは「山に籠れ」というショック療法だ。
 世間に倦んで山に籠り、人恋しさに涙を流す。孤独に耐え切れず下界に戻っては、人世の不条理に打ちのめされる…地べた這いずる虫けらに素直に負けを認めたのが、俺の悟りの境地(自分の限界を知る。身の程を弁える)だった。
 自称エコ・テロリストの非社会的(常識を疑い、破壊する使命感を持つ確信犯)な俺が「山籠もり」を他人に勧めるとは我ながら意外だが、レミングの集団自殺のような集団ヒステリーに対する有効な処方箋である。唯一の欠点は、尊大な自我を満足させる自慢話が言いふらせない事くらいだ。
 レミングの集団自殺は都市伝説だが、そう思いたい(思わせたい)心理が人間の無意識にも働いてるからだろう。テロルも群集心理も虚栄心の発露である自慢話も生存競争の故だ。自分一人しかいないのなら、パニックにも戦争にもならん。
(大衆扇動のネタが無いとマスメディアは困るだろう。ネットが無いとGAFAなどの情報産業は死ぬ――現代における最恐の危険思想を処方する医者モドキとは俺のことである)

 上のスクラップ記事を書いてた頃の俺は、2013年・夏からデジタル断捨離して――ネットやケータイ・スマホを捨てて――、県内の山中をサンカみたいに漂泊生活してた。
 時々山を降りてきて、マンガ喫茶に滞在。新聞・雑誌、TVやネット・ニュースを片っ端から漁って、書いた記事はクラウドに保存。
(クラウドのサービス変更や終了で飛んだ文書は数知れず。ホムペも消えてたし、これだからデジタルは信用ならん)

 今年は、仙人(世捨て人)暮らしをしていた数年分のブランクを埋めるのに費やした。
 人生なんて一回こっきり。何とかなるさ。何とかするさ。のんびり行こうぜ。…と、人間社会の破壊者は甘言を弄するのであった。


 蛇足: 上手いオチが思いつかないので、箴言でお茶を濁す。

  • 孤独を愛せよ。さすれば汝は孤独から疎まれる。
  • 富める者は最も悩み多き者、貧しき者は最も自由なる者である。
  • 喜劇を愉しむ者は、自らは悲劇を演ずる事になる。
  • 病める時、人は最も安楽を手に入れる。
  • 薬を欲するなら毒を用いよ。薄めた毒を薬という。

 ・・・逆も真なり。まだまだ思いついたが、切りが無いので省略。

 孤独であれば巻き添えを喰わずに済む。コロナしかり、人間関係しかり…
 たった一行のテーマを表す為に3000文字を費やす。真面目な文章を書くと、戯言・駄文を100倍は書かないとバランスがとれない。
 全くもって、これぞ時間と労力の無駄。ここまで読まれた方も、お疲れさんでした。

以下は、俺の手元のメモ帳に走り書きされた断片の列記である。
前提も、何についての論なのかは、想像に委ねる。
(時々、こうして吐き出さねば、俺の乏しい脳の思考領域がオーバーフローに陥る。OSで言うなら、デスク・トップ・ヒープやRAMの開放みたいなもの。意味があるようで、その実、第三者にとっては意味のないキャッシュ・クリアーの過程である)

  • 戦争で負けた側は、必ずといっていいほど見苦しい弁明を喚き散らす。戦争指導者の誰かにすべての責任を押し付け、下っ端の自分は「命令されただけ。無実無根だ」と。
    だがしかし、命令に従うも無視するも、どちらか決断して行動したのは、自分個人の意思である。
     正直な心情として、「戦争に行けと命令されて戦死するのも嫌だが、命令拒否で家族ともども反逆罪に問われるのはもっと嫌だ」、ならば戦争には賛成した方が利口だ。勝っても負けても、自分のせいじゃない。そんなところだろう。
     自由も平和も、ただ待ってさえいれば天から無償で与えられるものではない。どんな理想や欲望でも願えば叶う訳でないように、すべての幸福は血を流し汗を流して戦い抜き、勝ちとるものなのだ。尽力しない者、戦いの敗者にもたらされるのは、無と絶望だけである。
     利益の追求と不利益の代償関係から敷衍すると、人は良かれと思いながら悪事に手を染め、あるいは不正に目を瞑<つむ>る。
    「個人の美徳は、集団の悪徳である」(「経済学」P・サミュエルソン)
    ならば、「集団の美徳は、個人の悪徳」と言い換えることも可能であり、「お国のため、家族のため」という大義名分が与えられ、「命令に従っただけ」「みんなも同罪」という責任の回避、拡散が起こるとき、個人にとっての悪徳は美徳へと、いとも容易く欺瞞されるのだ。
  • 戦争は悪だが、それを止めなかった者こそ悪である。どんな理由であれ戦争に付き従った者は、自己正当化の虚言で己が果たすべき責任と贖罪から逃れてはならない。
     これは戦争の勝者、敗者のどちらにも課せられる義務なのである。
  • 福音と呪縛のどちらに目を向けるか。訊ねるまでもなく、答えは決まってる。だが、どちらか一方だけを享受することは許されない。因果と応報が対であるように、祝福と呪いは同時に存在する。
  • 古代ローマ崩壊は基本的に誰でもトップになれる共和国から、皇帝がトップでそれ以外は手下という構造の帝国になったことも崩壊の理由の一つだが、団結する理由がなくなれば集団は分裂していくものだ。
  • 議論は、賛成反対の対立項2者のみで行う限り、不毛である。第3の視点(意見)中庸の者を加えた3者で行うべきである。「三人寄れば文殊の知恵」という。
  • 100の成功より、1つの失敗から学べることの方が多い。
  • 健康保険等の社会保障とは、掛け捨ての保険である。社会活動の中核を担う現役世代や次世代の救済を考慮したものなのだから、現役を退いた老後世代には本来不要なはずである。しかし、現状では老人が医療のリソースを食い尽くしている。本人が積み立てた以上を還元するシステムが早晩、行き詰るのは至極、当然の結果である。
  • 人間関係とは、勘違いと思い込みから出来ている。
  • 具体的表現を避けて曖昧な記述ばかりを並べた「法」は、公の文書として適当ではない。
     例えば、「法=ルール」だとしても、「法¬(数学記号:否定)正義」であり、また「ルール¬正義」である。このような明瞭な言い回しに対して、「常識(道徳)」を念頭に非現実的な観念のみを前提にした(性善説のような)当たり障りのない議論に終始し、あるいは法律の条文には一切記載されていない文言をどこからか引っ張り出し、その解釈を巡って時間ばかりを空費する。そして、何ら実効的な問題解決の手段を見出せないまま、議論そのものをドサクサに紛れて棚上げにしてしまう。
     そもそも「常識(道徳)」などは、ある一時期、ある場所でしか通用しない流動的な価値観であって、普遍的事象を論ずる基準としては相応(ふさわ)しくない。
     「法」を定義するならば、目的と手段を明確にし、適用される状況や処罰に至るまで具体的に規定するべきである。
     曖昧なルールではゲーム自体が成り立たないように、「法」の理念に基ずく「法律」すら、日和見な適用を許してしまうことになる。
     何を守り、何を罰するのか、何の為に存在する「法」なのか?
     社会の秩序と権利を保護するはずのものが、秩序を乱し権利を踏みにじりかねない。
  • 「できること」ではなく、「できないこと」を詳らかに暴き出すのが防衛本来の目的だとするなら、都合の良い前提や結果だけを想定した作戦、戦略、戦術といった、あらゆるシミュレーションは意味をなさない。
    トラブルやアクシデントというものは、常に予想外、予測不能の偶然によってもたらされる。
    「備えあれば憂いなし」とは言うが、自分に都合のいい結果ばかりを期待して、最悪の事態を想定しない備えなど、一体、何の役に立つのであろうか? あまつさえ、防衛自体を毛嫌いする論者たちは自宅の玄関に鍵は掛けずに外出し、空き巣に入られても被害届は絶対に出さない気前の良い方々なのであろう。 (是非とも、住所を公開して欲しいものだ。俺が居座らせてもらう)
  • ユダヤ人迫害の歴史は古いが、ユダヤ人による侵略も同じだけ歴史を重ねている。
    中世ヨーロッパで繰り返された十字軍の遠征は、19世紀末にも起きている。現在まで続くイスラエルパレスチナ問題が、それである。長年迫害されてきたユダヤ人ならば、パレスチナの市民を迫害してもいいと言うか?
    目には目を、迫害には迫害をもって復讐とする。正義の名のもとに、どれだけ多くの血が流されてきたか知らぬ訳ではあるまい。
    20世紀前半、ヨーロッパで迫害されてきたユダヤ人だが、果たして彼らは純粋な被害者なのだろうか?
    キリスト教発生の以前からユダヤ人は(正確にはユダヤ人の資本家や金融家だが)忌み嫌われてきた。ナチスドイツがユダヤ人を迫害したのは事実であるが、それを歓迎した者たちは、迫害に関わる全ての罪をナチスに押し付け、口を拭っている。
    1949年のイスラエル建国以来、アラブ周辺国を巻き込んで争いが絶えないのは、イスラエル自身の身勝手な論理の押し付けによる横暴が原因である。 イスラエルに、あらゆる横暴の免罪符を与えているのは、一体、何であろうか?
  • 10対0の被害者などいない。運が良ければ51対49、良くて半々でしかない。何故なら、加害者、被害者という区別はタイミングの問題でしかないからだ。被害者に与えられるのは慰めの言葉だけであり、何をしても許される権利など有りはしない。被害者による報復を認めるなら、加害者に罰を与えるのも止めねばならない。
    法治の限界は、人は罪を犯すことを辞(いな)むのではない、罰を恐れるという点に尽きる。

・・・ひとまず、ここまで。
固有名詞が俎上に上がっている節もあるが、読み流して欲しい。

中学時代、「毎日、ひとネタは作る」として、ネタ帳にマンガや小説のネタをひり出すのを日課にしていた。それから、数十年…。
結果、膨大なネタ帳を積み重ねることになった。
物語として体を成した物は、全体の1パーセントにも満たず、唯ひたすらメモとして積み上がっている。
ツイッターやら何やらで、日々更新・積み上がっていく個人発信も同様だが、それらが一時的な感情の発露や無責任な言いっ放しになっていないか?

 

「事実はひとつ。真実は無数にある」
(「たった一つの真実を~」と抜かしてるコナン君。・・・小学館よ、お前んとこは国語辞典も出してる癖に、子供に嘘教えちゃあ、いかんぜよ)

 

真実なんて追及するのは『物書き』の仕事であって、報道(ジャーナリズム)や短絡・浅薄思考の個人が発してはならないと俺は考える。
前述の俺の走り書きですら、俺の書くチンケな小説でさえ、2重・3重の検証と推敲によって原型を留めないくらいに変容するのだ。
何気なく、感じたまま、思ったままを投稿するSNSユーザーの軽率さを否定するつもりはないが、

お前ら、

責任取る覚悟は、できているんだろうな!?

言っただけで罪に問われるのか? 思っただけで罰せられるのか?
そう言う反論が聞こえてきそうだが・・・そんな逃げ腰100%の卑怯者に誰かを非難する資格は無い!

俺に許しは無い。俺は、『yama』。地獄の閻魔様だぜ。
俺は、全てを見、知っている。俺を欺ける者など無い。
俺は誰も殺しはない。ただ試練を与えるだけだ。死ねば楽になれると誰が言った?
覚悟して、俺の目の前で罪の告白をするが良い・・・

何のこっちゃか支離滅裂になったが、無理やり、まとめる。

「人を呪えば穴二つ」
他人を呪詛すれば自分も同様。 他人の過ちには己も同列に罰を受けろ。

この世に生きる苦しみは、皆、俺の苦しみ。
この世に生きる喜びは、皆の物。共に喜べ。

 

中島みゆきの引用じゃないが、
「怒りを越え、憎しみを越え、悲しみを越えて、
伝われ、愛・・・」

(30年以上前に読んだ本のうろ覚え。多分、こんなだった)
ところで、「愛」って何だ? うまく説明できないものは「神」とか「愛」って抽象的な言葉で断言を避ける。
自分でも理解できていない。説明もできないくせに知ったかぶるくらいなら黙ってろよ

 

随分、寒くなった。
先々月末、先月と近所の山の四季を散歩した記事をまとめるに当たって、すっかり秋の景色・色合いだな~と滴る汗を拭ったタオルを絞っていたのが懐かしい。

ところで、先日の衆議院議員総選挙、投票しに行ったかな?
俺の地元・長野県はコロナでおっちんだ世襲・無能・ドラ息子の県議会議員の補欠選挙もあったので、何ら悩む必要もなかったが、無事に衆院、県議とも俺が投票した候補が当選した(当たり前だ。これが民意の反映である。腐れ左翼とマスゴミどもの妄想で殺されてたまるか)。
往生際の悪いクソ野郎も比例で復活当選してやがったが、万年落選候補が議席を取れるような小選挙区・比例代表制選挙は悪政としか言いようがない。

地元を占有する『信濃在日新聞』・・・おっと、間違った、『信濃毎日新聞』の社説も往生際が悪いのは既知だが、またしても口汚い捨て台詞に満ち満ちている。

朝鮮総連とパチ屋の手先の朝日新聞・信越版のド腐れ新聞を、俺が目の敵にしてるのは1994年6月の「松本サリン事件」に始まる。

犯人でっち上げてまでオウムを庇いだてした上に、ひたすらマスコミの暴力を揮って人を殺しても露ほどの良心の呵責すらない、誰一人責任を取らない外道どもだからだ。
オウムにとっては松本サリン事件での成功体験が、後の「地下鉄サリン事件」を招いたと言っても過言ではない。自由だの何だのとテメエの権利を主張する前に、背負った責任は命懸けだと自覚しろ。
(他人を殴るからには殴り返される覚悟を持て。一方的な、やり逃げは許さない。相手が殴り返す度胸もないなら、全力で自分自身を殴ってみやがれ)

ま、いくら謝罪したところで、あの事件で死んだ人間は生き返らない。
従軍慰安婦だか徴用工だか知らんが、そんなデッチ上げで金せびる韓国詐欺師の口真似じゃないが、お前ら信毎記者及び一族郎党は、朝に夕に犠牲者の墓前に膝まづいて謝罪し続けろ。許しを受けるまで終わりはないぞ!
(死人に口なし。よって未来永劫、謝罪し続けろ)

話が逸れた。罵詈雑言・言いたい事は尽きないが、俺の近況に話を戻す。

さて、去年からのコロナ自粛は、緊急事態解除でも継続中。
はっきり言って、俺みたいに大勢の人集めて、お祭り騒ぎして、おこぼれ頂戴の興行商売は絶望的である。
商売替えしようにも、50歳の中年が転職できる先があろうか?

そんな事は百も承知で飛び込んだ道楽商売なので野垂れ死ぬ覚悟は、とっくにできている。
なので大して苦にもしていないが、毎日何もやる事もなく過ぎていくのが口惜しい。
暇潰しにと、「なろうサイト」に以前書いた駄文(小説・脚本)やイラストを投稿するも、新作は手掛けてはいるが、そもそも何年・何十年もかけて蓄積してきた銃弾<タマ>を無駄撃ちしてるようなもの。早晩、手持ちの残弾が乏しくなってきた。

そんな泣き言を抜かしたくなるものの、俺は男なので泣かない、泣いちゃ~、お仕舞だと躾けられてきた。フェミニズムだかジェンダー・フリーだか知れないが、泣き言抜かして甘えついてる手合いの幼稚さには反吐が出る。早く一人前の大人になれ。
売り場の前で泣き喚いて、欲しいオモチャを買ってもらえるのは3歳までだぜ。
(俺の体験談。その後は、半年ねだって、親の仕事手伝って、汗と埃にまみれてのご褒美だった。家業の手伝いなんて、サラリーマン家庭じゃ無理か?)

そんな事より、久しぶりにタバコを買ったのだが、いつの間に、こんなに値上がり(増税)してやがったんだ!?
まったく、ふざけやがる。非喫煙者からも受益者負担の名目で税金ふんだくれよ。それが「公平」というもの。手前勝手な横溢を自由とは言わない。
安全・安心は、タダじゃないんだぜ?

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(写真1段目)10月9日(土)、天気が撮影向きではなかったので、翌日10日(日)に変更。

(写真2段目)春に来た時は満開だっだ八重桜・枝垂れ桜の並木。秋の今は、当然だが葉桜である。

(写真2段目・中央、右側)遠くの朱色の屋根が「蓮華寺」。

(写真3段目)「登り口」。(写真3段目・右側)斜面にプラ製の階段(ステップ)が設置されていた。この前、来た時は無かったはず…

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(写真1段目・左側、中央、)何だ、このビニール覆い?――『マツノマダラカミキリ駆除処理中…』とある。マツ枯れマツ材線虫病)の処置であった。「R3年8月2日」とあるので、前回訪れた後である。そりゃあ知らん訳だ。

(写真1段目・右側)郷倉」。今回は、埴原城跡とその周辺を巡って来た行程を締め括るのが目的だ。

(写真2段目・左側)埴原・春』の記事で撮り忘れていた「郷倉」の正門の奥にある建物は、(うまや:馬小屋)だろう。現在は物置だろうが。

(写真2段目・中央、右側)蓮華寺」と登り口案内板。こちらの登り口を利用しない理由は、次の写真。

(写真3段目・左側)刈り取られた「ソバ畑」。俺は、ソバ・アレルギーである。「郷倉」から、その先へ行かない(行けない)理由である。『鉢伏ファーム』(鉢伏山地)は、コメの減反政策廃止以降、コムギ・ソバの栽培に転作している。特にソバの作付面積が急拡大している。
アレルゲンは、ソバ粉だけでなく、花粉(花蜜)やソバ殻もダメである。花粉の季節は、絶対に近寄らない。風向き次第では外出もしない。あるいは高山に籠る(避難する)。
前回の『埴原・夏』の記事で、早朝・夜明け前に出発してるのも、虫や花が休息中を見計らっての事である。そんなにデリケートでありながら、山行きでは「ウルシかぶれ」以外で悩まされたことは無いので、基本、人間とその生活環境が体質に合わないのだろう。

(写真3段目・中央、右側)埴原東」公民館の南、「埴原神社」へ。植え込みに咲いてるのはラベンダーか? 元々は香油の原料として畑で栽培されてたのだが、合成香料が普及して以降は、花の期間が長いからか変異種(交雑種)の花壇をよく見かける。

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(写真1段目・左側)埴原神社」。以前の記事では一切触れなかったが、小学校の遠足で初めて訪れたのが38年前(ケガした思い出しかない)。神社の千年以上の由縁と比べれば、たかが数十年経た程度では、そのたたずまいは変わらない。

(写真1段目・中央)下流域の「宮入川」。上流の砂防ダムの大きさからは想像できないくらい、下流の住宅地を流れる姿は2歩で跨げる用水路か側溝(放水路)程度。
夏、上流で釣り糸を垂れていた客人よ。牛伏川・北渓流を成す千石沢も、この宮入川と同様なのである。水辺の生態系なんて期待するだけ無駄である。

(アメブロの過去記事『yamaの休日(2)』。2011年・夏の牛伏寺ダム周辺を取り上げた記事)

(写真2段目・左側、中央)灯台下暗し よくよく見れば、「石積み」や「石塁」は身近にある。これも史跡の一部だとしたら、余りに身近過ぎて見落としてる可能性があるかも。

(写真2段目・右側)宮入川に架かる橋。「音渡橋(おんどはし)」とは珍しいネーミング。「沢渡(さわど)」「猿渡(さるわた)」など「~」という地名があるので、「音渡」にも由来があるはず。

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実線は辿ったルート。山向こうや見えていない谷間の林道は破線で表す。また道標や施設名などは、大雑把である。
写真は事実(ありのままの様)を写さない。真実(もっともらしい解釈)を写すのみ。カメラのレンズ歪みや輪郭補正によって、画像の中央は伸び、周辺は内向きに矯正される。精密な測量地図や見取り図があれば有難いのだが…)

写真・左から右へ。こうして見ると、よくも歩いたものだと感慨一入かんがい・ひとしお
(「松本一本ねぎ」の季節。狩猟解禁したら「鴨ネギ鍋」だな)

気紛れ、気のせい、気の迷い…毎回・ほんの出来心で出掛ける山歩きであるが、現在の自宅に移り住んで26年。およそ松本盆地の東山麓は踏破した。

他県出身のよそ者エイリアンである俺だが、下手すれば地元の人間より信州の山に対する造詣は深くなってるかも。

 


近所(歩いて1時間―約5kmが近いかは、さて置き)の山の四季折々を逍遥(散歩)したルポタージュは、如何だったろうか?
過去にも塩尻~牛伏寺を巡った記事を書いている。その流れを汲んで埴原を中心に中山地区を扱ってみた。
実のところ、記事にしていないネタがストックされているのだが、訪れてから時間が経ち過ぎていて何を今さら…な案件も多い。
四半世紀前の『D-pro』自主映画でも、舞台として使っている林城址とか扉峠・扉温泉の周辺とか。紹介したい景色は色々とある。ま、俺も無理しても褒められない年齢なので、何処をいつ頃とは予告できないが、今後も気紛れに記事として上げるとしよう。

 

今回からカメラの画角が「4:3」から「16:9」になった。
TVの地デジ化から10年。すっかり、お馴染みになった横長の画角だが、水平をきっちり出さないと構図が決まらない。水平器付きの三脚を使ってるのだが、セッティングに手間を取られて肝心の被写体にまで気が回らない
(写真が少ない言い訳は以上。不整地の斜面で水平に三脚を据える苦労を知るがいい)

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(写真1段目)夏の夜明けは早い。午前4時過ぎで東の空は朝の気配。今回もお馴染み「埴原城跡」を目指す。出発から30分程で早くも朝陽が差してくる。埴原城跡入口に到着。すっかり朝である。

(写真2段目)数年前から、シカ以外に人間も害獣指定された。マウンテンバイクによる踏み荒らしが問題になったのだが、歴史遺産保護の風潮が高まった現在。山道を走りたけりゃあ、長野県は他にも山など腐るほどある。わざわざ重要文化財指定されてる私有地の山林で暴走する必要性などない。

(写真2段目・中央)途中の経路を端折って、帯郭(城郭跡)到着。ハゲ隠しのスキンヘッド野郎。ちなみに50歳になった。30年近く着慣れた米軍・後期ベトナム・スモック(作業着)は、入山してから着替えた。いくら俺とて、軍装で町中を歩き回るほど非常識ではない

自分の写真を晒すのは、よっぽどの間抜けかナルシストと言われる。バイト・テロみたく、犯罪告白でなければワイドショーでも取り上げられない。
島本和彦曰く誰かを批判するなら、自分も名乗れ『面も名前も晒せない卑怯者に、世間様を罵る資格は無い。永遠に黙ってろ』←これは俺の弁。昔作った自主映画やホムペを2007年頃から晒し続けてるが、俺も他のキャストにも、未だかつて何一つ反響は無い(それはそれで寂しいような…)

無知ならぬ無恥を晒すのが仕事の国会議員ですら、衆参合わせて713名中・顔と名前が知られているのは、ニュースやワイドショーで取り上げられる20~30人程度。
世の中の99.998%(平均人口10万人から2人を除いた残り)の人間なんて、取るに足らないその他大勢ゴミカスに過ぎない。
じゃあナルシストなのかって?…俺もアンタも、自惚れるには、身の程知らずが先に立つぜ。

(写真2段目・右側)盆地を照らす朝陽が眩しい。

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(写真)中部電力の送電鉄塔。標高は麓から3分の1くらい。さらに道中を端折って、冬に引き返したポイント(皮剥ぎ跡)まで来た。雪が無いだけでも歩き易い。

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(写真1段目)南に見える前鉢伏山(標高1836m)の裾野、その奥は高ボッチ高原(標高1665m)。斜面からでは開けた眺望が限られる。来た途を振り返っても、見える景色は変化に乏しい。
東京電力の送電鉄塔。中電の鉄塔の2倍以上デカい。麓(登り口)から2時間半。ここまで来て、やっと半分の高さ。
下界からは、すぐにも頂上があるように見えるが、標高で8百m、水平距離で3.5kmほどある。数字だけみれば、訳なく思えるのだが…

(写真2段目・中央)深い木立に入り込むと今度は見通しが、まったく利かない。
(写真・右側)道らしきものをアテにすると、実は獣道で、とんでもない方向へ誘導されかねない。東へ向かって登っていたはずなのに、いつの間にか南に向かって進んでいたり。

「山で遭難する奴って、わかんねぇ~な。登ってるのか降てるのかくらい馬鹿でも分かるだろ。とにかく麓を目指して降りて行けば良いんじゃね?」
と高校時代の同級生が言っていたのを思い出す。一見もっともらしい意見だが、俺は言い返した。
「どいつも、こいつも簡単に考え過ぎてる。麓が近くなれば木立ちや藪が濃くなって見通しが利かない。歩き易そうな足場が行き止まったら即ゲームオーバー。戻るにも手遅れ。見通しが利かなきゃあ来た道も分からん。焦って無駄に歩き回って体力を消耗する。ヤバいと気付いた時には気力も底を尽いている…だから遭難する」
「じゃあ、どうすりゃあ良いんだ?」
「頂上を目指せ。麓は広大でも、頂点は一つだ。だが、頂上がゴールじゃない。上に行くほど障害物や木立ちも疎らになって周辺の見通しが利くようになる。自分の居場所も分かるから、下山ルートの目安も見て取れる。山に限らず、道に迷うヤツってのは、安直な目先に囚われて進むべき最適解(目標だな)が見えてない。同じやるべき事でも、確信の有る無しでは大違い。馬鹿と利口の境目には、発想の転換が必要だぜ」

理屈がましい口っぷりだが、明解な解釈と怜悧な洞察力。生まれつきの天才とは、学歴や年齢には関係ないという証である。

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(写真1段目)宮入山(標高1531m)・北側の稜線を越えて、美ヶ原高原・南西の谷地<やち>に出る。木立ちの間から遠くに見えるのが美ヶ原・王ヶ頭。オリジナルの写真では拡大すると電波塔のパラボラが判別できたが、記事用のアルバム写真では無理。

(写真2段目)東に下って、森林整備作業道・高遠線(林道)に沿って南へ向かう。(写真左・北、写真中央(看板)・東、写真右・南)
現在時刻は、午前11時ちょい前。昼休みには、まだ早い。

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(写真1段目)ちなみに今回の山行き(トレッキング)は7月下旬。本来は8月の盆休みに予定していたのを何故か前倒しにしたのは、予知能力か、本能のなせる業か。それくらい今夏は8月中旬以降、曇りと雨の日が交互で晴れた日が貴重だった。
(線状降水帯の停滞と台風の影響で、8月14日(土)・台風10号接近に伴い、天気は雨。降水量119mm、最高気温19.7℃。真夏の気温じゃないわな)

砂岩の露頭がチラホラ。白いのは凝結石灰岩(火山灰)の層が風化した物。
日本列島が形成される遥か以前、松本盆地は海の底だった。海底に降り積もった土砂や生物の死骸などから成る軟弱な地層が、牛伏寺断層や中山断層を生んだ原因である。

(写真2段目)林道の看板に止まった蛾。虫には詳しくないので種類は分からない。「十分」の十の字にピッタリと留まっているのが面白い。

牛伏川・北側の渓流に向かう栗の木線の分岐。この辺りは安山岩の節理が見られる。これも地層が脆い原因となっている。

06-h_summer

(写真1段目)松本盆地・南西部。奥の山脈は中央アルプス、手前は朝日村・鉢盛山。盆地の中央を南北(写真では、左右)に流れる奈良井川。Wikipediaの記事では~松本盆地を東西に二分するように流れる。と書かれてるが、『南北』の間違いである。※ 余談 ↓

よく知らない誰かが立てた石碑。
千石沢・取水堰。後から気付いたのだが、橋みたいに見える堰の向こうの砂洲に先客のテントが写っていた。

(写真2段目)林道・水尾線。ガードレールが設置されている範囲は、沢に架かるである。
1991年のバブル時代末期、千石沢に作られたオートキャンプ場。渓流の木陰で一休み。固形燃料で湯を沸かし、インスタント・ラーメンで昼飯にした。
フォーカスト・ビバークの用意はしてきたが、俺のお気に入りの場所には先客がテントを張っていたので諦めた。
老婆心ながら、ご忠告。渓流に釣り竿を据えていたが、残念ながら、ここ千石沢に魚はいない。空梅雨の年は涸れ沢になるのだから仕方ない。土石流災害を防ぐ砂防ダムの排水路が現在の役目である。下流で合流する宮入川牛伏川も通常は涸れ河川である。遡上する魚もいなけりゃあ、涸れる川に稚魚を放流する漁協もいるはずない。
(コロナ自粛の反動でアウトドア・キャンプが大流行。お前ら、『豚熱』を撒き散らすなよ。山への出入りの際には靴底、自動車のタイヤも消毒が必須だからな)

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(写真1段目)今や廃墟と化した中山取水場。貯水・沈殿漕に生えたクロマツが廃墟になってからの年月を物語る。
(何故か時々、写真や動画が上手く撮れない事がある。この日に撮った取水・配水場施設の写真のほとんどがピンボケ、手振れ(三脚使ってるんだが…?)だらけ。別の日に撮り直しに行くとちゃんと写るんだよな。何でだろう?)

(写真2段目)栗の木線から見た、西の盆地(山形村・波田・上高地)、南東・高ボッチ高原。

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(写真)寿・百瀬地区から見た中山、内田地区の山並み。
休憩を取りつつ約11時間、総歩行距離・約21キロのトレッキングであった。所要時間からすると、平地なら2倍の距離でも余裕で歩けたはずだが、これが高さを加えた3次元を移動する難しさである。
(アルプス登山で遭難する者の共通点は、自己体力への過信と所要時間の甘い見積もり…)

 


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奈良井川と言えば、2011年6月30日、奈良井川付近・地下4キロを震源とする震度5強の直下型地震があった。
同年3月の東日本大震災に比べれば被害は少なかったとは言え、大きく報道されなかったのは、それに先立つ長野県北部・栄村の地震ほどには影響がなかったからであろう。東京電力絡みは大々的に報道されるのだが、それでも中部地震の扱いは小さかった。恐らく、日本の水力発電の中枢が長野県にある事を知る日本人が少ないからであろう。

当時、関西電力管轄地に住むネット住民の中には「東電の輪番停電ザマーwww」なんて、ほざいてたタコがいた。しかし、原発停止で機能不全に陥っていたのは東電だけでなく、関電は総発電量の50%以上を原発に依存してたのが実情。福島の原発事故以前から中国電力中部電力のみならず、東電からの融通電力で電力需要を賄っているようなていたらく。それを知ってか知らずか、どの口が、ほざけた戯言か?
ピーク・カット停電で電車が止まった関西の2ちゃん・ローカル板に、俺も仕返しに「関西電力圏ザマーwww」と書き込んだものだが、掲示板も停電中だった

されど喉元過ぎれば何とやら。二酸化炭素排出量削減で火力発電は頭打ち。むしろ減らさなきゃならん。
天気に左右され、昼間しか役に立たない(中国製・発電パネルを買わせるべく買収されたマスメディア、親中・国会議員大絶賛の)不安定な太陽光発電(メガソーラー)は、発電能力云々うんぬん以前に運営・経営サイドが絶賛迷走中。なのに日本の電力消費量は減らない…どころかリモート・ワーク推奨で個別消費量が増える一方。

電気が無いと俺の生活も仕事も、どちらも大いに困る。山道を歩きながら、そんな事を考えてるのであった。

荒野にあっては都会に恋焦がれ、都会にあっては荒野を夢見る

我ながら矛盾を抱えた生き物だと苦笑い。長々しい余談は以上。