以下は、俺の手元のメモ帳に走り書きされた断片の列記である。
前提も、何についての論なのかは、想像に委ねる。
(時々、こうして吐き出さねば、俺の乏しい脳の思考領域がオーバーフローに陥る。OSで言うなら、デスク・トップ・ヒープやRAMの開放みたいなもの。意味があるようで、その実、第三者にとっては意味のないキャッシュ・クリアーの過程である)
- 戦争で負けた側は、必ずといっていいほど見苦しい弁明を喚き散らす。戦争指導者の誰かにすべての責任を押し付け、下っ端の自分は「命令されただけ。無実無根だ」と。
だがしかし、命令に従うも無視するも、どちらか決断して行動したのは、自分個人の意思である。
正直な心情として、「戦争に行けと命令されて戦死するのも嫌だが、命令拒否で家族ともども反逆罪に問われるのはもっと嫌だ」、ならば戦争には賛成した方が利口だ。勝っても負けても、自分のせいじゃない。そんなところだろう。
自由も平和も、ただ待ってさえいれば天から無償で与えられるものではない。どんな理想や欲望でも願えば叶う訳でないように、すべての幸福は血を流し汗を流して戦い抜き、勝ちとるものなのだ。尽力しない者、戦いの敗者にもたらされるのは、無と絶望だけである。
利益の追求と不利益の代償関係から敷衍すると、人は良かれと思いながら悪事に手を染め、あるいは不正に目を瞑<つむ>る。
「個人の美徳は、集団の悪徳である」(「経済学」P・サミュエルソン)
ならば、「集団の美徳は、個人の悪徳」と言い換えることも可能であり、「お国のため、家族のため」という大義名分が与えられ、「命令に従っただけ」「みんなも同罪」という責任の回避、拡散が起こるとき、個人にとっての悪徳は美徳へと、いとも容易く欺瞞されるのだ。 - 戦争は悪だが、それを止めなかった者こそ悪である。どんな理由であれ戦争に付き従った者は、自己正当化の虚言で己が果たすべき責任と贖罪から逃れてはならない。
これは戦争の勝者、敗者のどちらにも課せられる義務なのである。 - 福音と呪縛のどちらに目を向けるか。訊ねるまでもなく、答えは決まってる。だが、どちらか一方だけを享受することは許されない。因果と応報が対であるように、祝福と呪いは同時に存在する。
- 古代ローマ崩壊は基本的に誰でもトップになれる共和国から、皇帝がトップでそれ以外は手下という構造の帝国になったことも崩壊の理由の一つだが、団結する理由がなくなれば集団は分裂していくものだ。
- 議論は、賛成反対の対立項2者のみで行う限り、不毛である。第3の視点(意見)中庸の者を加えた3者で行うべきである。「三人寄れば文殊の知恵」という。
- 100の成功より、1つの失敗から学べることの方が多い。
- 健康保険等の社会保障とは、掛け捨ての保険である。社会活動の中核を担う現役世代や次世代の救済を考慮したものなのだから、現役を退いた老後世代には本来不要なはずである。しかし、現状では老人が医療のリソースを食い尽くしている。本人が積み立てた以上を還元するシステムが早晩、行き詰るのは至極、当然の結果である。
- 人間関係とは、勘違いと思い込みから出来ている。
- 具体的表現を避けて曖昧な記述ばかりを並べた「法」は、公の文書として適当ではない。
例えば、「法=ルール」だとしても、「法¬(数学記号:否定)正義」であり、また「ルール¬正義」である。このような明瞭な言い回しに対して、「常識(道徳)」を念頭に非現実的な観念のみを前提にした(性善説のような)当たり障りのない議論に終始し、あるいは法律の条文には一切記載されていない文言をどこからか引っ張り出し、その解釈を巡って時間ばかりを空費する。そして、何ら実効的な問題解決の手段を見出せないまま、議論そのものをドサクサに紛れて棚上げにしてしまう。
そもそも「常識(道徳)」などは、ある一時期、ある場所でしか通用しない流動的な価値観であって、普遍的事象を論ずる基準としては相応(ふさわ)しくない。
「法」を定義するならば、目的と手段を明確にし、適用される状況や処罰に至るまで具体的に規定するべきである。
曖昧なルールではゲーム自体が成り立たないように、「法」の理念に基ずく「法律」すら、日和見な適用を許してしまうことになる。
何を守り、何を罰するのか、何の為に存在する「法」なのか?
社会の秩序と権利を保護するはずのものが、秩序を乱し権利を踏みにじりかねない。 - 「できること」ではなく、「できないこと」を詳らかに暴き出すのが防衛本来の目的だとするなら、都合の良い前提や結果だけを想定した作戦、戦略、戦術といった、あらゆるシミュレーションは意味をなさない。
トラブルやアクシデントというものは、常に予想外、予測不能の偶然によってもたらされる。
「備えあれば憂いなし」とは言うが、自分に都合のいい結果ばかりを期待して、最悪の事態を想定しない備えなど、一体、何の役に立つのであろうか? あまつさえ、防衛自体を毛嫌いする論者たちは自宅の玄関に鍵は掛けずに外出し、空き巣に入られても被害届は絶対に出さない気前の良い方々なのであろう。 (是非とも、住所を公開して欲しいものだ。俺が居座らせてもらう) - ユダヤ人迫害の歴史は古いが、ユダヤ人による侵略も同じだけ歴史を重ねている。
中世ヨーロッパで繰り返された十字軍の遠征は、19世紀末にも起きている。現在まで続くイスラエルパレスチナ問題が、それである。長年迫害されてきたユダヤ人ならば、パレスチナの市民を迫害してもいいと言うか?
目には目を、迫害には迫害をもって復讐とする。正義の名のもとに、どれだけ多くの血が流されてきたか知らぬ訳ではあるまい。
20世紀前半、ヨーロッパで迫害されてきたユダヤ人だが、果たして彼らは純粋な被害者なのだろうか?
キリスト教発生の以前からユダヤ人は(正確にはユダヤ人の資本家や金融家だが)忌み嫌われてきた。ナチスドイツがユダヤ人を迫害したのは事実であるが、それを歓迎した者たちは、迫害に関わる全ての罪をナチスに押し付け、口を拭っている。
1949年のイスラエル建国以来、アラブ周辺国を巻き込んで争いが絶えないのは、イスラエル自身の身勝手な論理の押し付けによる横暴が原因である。 イスラエルに、あらゆる横暴の免罪符を与えているのは、一体、何であろうか? - 10対0の被害者などいない。運が良ければ51対49、良くて半々でしかない。何故なら、加害者、被害者という区別はタイミングの問題でしかないからだ。被害者に与えられるのは慰めの言葉だけであり、何をしても許される権利など有りはしない。被害者による報復を認めるなら、加害者に罰を与えるのも止めねばならない。
法治の限界は、人は罪を犯すことを辞(いな)むのではない、罰を恐れるという点に尽きる。
・・・ひとまず、ここまで。
固有名詞が俎上に上がっている節もあるが、読み流して欲しい。
中学時代、「毎日、ひとネタは作る」として、ネタ帳にマンガや小説のネタをひり出すのを日課にしていた。それから、数十年…。
結果、膨大なネタ帳を積み重ねることになった。
物語として体を成した物は、全体の1パーセントにも満たず、唯ひたすらメモとして積み上がっている。
ツイッターやら何やらで、日々更新・積み上がっていく個人発信も同様だが、それらが一時的な感情の発露や無責任な言いっ放しになっていないか?
「事実はひとつ。真実は無数にある」
(「たった一つの真実を~」と抜かしてるコナン君。・・・小学館よ、お前んとこは国語辞典も出してる癖に、子供に嘘教えちゃあ、いかんぜよ)
真実なんて追及するのは『物書き』の仕事であって、報道(ジャーナリズム)や短絡・浅薄思考の個人が発してはならないと俺は考える。
前述の俺の走り書きですら、俺の書くチンケな小説でさえ、2重・3重の検証と推敲によって原型を留めないくらいに変容するのだ。
何気なく、感じたまま、思ったままを投稿するSNSユーザーの軽率さを否定するつもりはないが、
お前ら、
責任取る覚悟は、できているんだろうな!?
言っただけで罪に問われるのか? 思っただけで罰せられるのか?
そう言う反論が聞こえてきそうだが・・・そんな逃げ腰100%の卑怯者に誰かを非難する資格は無い!
俺に許しは無い。俺は、『yama』。地獄の閻魔様だぜ。
俺は、全てを見、知っている。俺を欺ける者など無い。
俺は誰も殺しはない。ただ試練を与えるだけだ。死ねば楽になれると誰が言った?
覚悟して、俺の目の前で罪の告白をするが良い・・・
何のこっちゃか支離滅裂になったが、無理やり、まとめる。
「人を呪えば穴二つ」
他人を呪詛すれば自分も同様。 他人の過ちには己も同列に罰を受けろ。
この世に生きる苦しみは、皆、俺の苦しみ。
この世に生きる喜びは、皆の物。共に喜べ。
中島みゆきの引用じゃないが、
「怒りを越え、憎しみを越え、悲しみを越えて、
伝われ、愛・・・」
(30年以上前に読んだ本のうろ覚え。多分、こんなだった)
ところで、「愛」って何だ? うまく説明できないものは「神」とか「愛」って抽象的な言葉で断言を避ける。
自分でも理解できていない。説明もできないくせに知ったかぶるくらいなら黙ってろよ。