(18)
1992年~
海外で若気の至りを尽くして戻った日本は、バブル経済が崩壊を始めていた。
そもそもバブルの恩恵など何ひとつ享受せず、寧ろ苦渋、辛酸の限りを浴びたのである。
田舎の朝は、早い。朝日が昇るやいなや近所のリンゴ畑では、スピード・スプレーヤーが轟々と騒音を撒き散らして農薬散布を始める。
春眠暁を覚えずと、うつら・うつら寝惚けていた俺は、その音をヘリコプターのローター音と錯覚し、枕元を探り、反対の腕はベッドの傍らにコンバット・ブーツを手探りして空気を掻く。
俺の銃が無い! ブーツが無い!! スモック(戦闘服)は!?
声にならない悲鳴を上げ、ベッドから跳ね起きた。我に返った俺の目に映るのは、長年住み慣れた我が家の部屋。窓の外から流れ込む畑の騒音の正体に気付き、忘れていた息を取り戻す。
爽やかな春の朝、心地良い微睡みから、即時に臨戦態勢に移行する戦場で身に付いた条件反射に愕然とするのであった。
新聞配達の気配で目が覚めるのも不眠を招く原因となった。夜中、部屋の灯を点けっぱなしにして、浅い眠りを繰り返す。
人の後ろを歩く時は、気配を殺し、無意識に忍び足を立てる。常に方角を確認し、歩数を数え、所要時間を計る。曲がり角は、建物から離れ、直角に曲がる。ついでに背後も確認する。その他、護身の心得の数々・・・
臆病なほど慎重に周囲を警戒しながら、行動は鈍感なほど大胆に。
平和ボケした日本で、常に、これほど緊張し続けなければならないのか?
これが「PTSD」というヤツらしい。医学を齧る以前から、心理学や精神分析を独学していた身としては、戦場で受けたトラウマを克服する手段を自ら導き出した。
それが小説を書いたり、自主映画を作ったりという作業である。自分の経験や知識を外部に吐き出すのだ。主観から切り離し、客観視する。
実名は出せないので、架空のパラレル・ワールドを舞台とした物語にする。
丁度良い事に、中学時代に創案した「裏稼業」の設定があった。
中学時代、8ミリ・フィルムでの自主制作映画用に書き起こしたシナリオから発展した一連の小説や脚本を高校時代に執筆していた。
(思い起こせば、この架空物語の取材でT氏と知り合ったのである)
俺の創作は、実経験に基く。嘘八百の作り話であろうと、99%のリアルと1%のフィクションからなるのが俺の創作スタイルだ。知らない事は描けないし、実感に欠ける。
物語の登場人物のモデルにした実在の人物の大半は、俺の人物観察を面白がってくれたが、その経歴や関わった事件については大幅な書き換えを要求した。
ま、当然ではある。
謀略、暗殺の実行犯である。非公式な国家犯罪を公にしたら戦争になる。また逆に抑止している場合もある。所詮、歴史の真実など、決して陽の目を見ることはない。
ストレス発散のつもりが、却ってストレスを溜め込む事にもなりかねない。それでも、「王様の耳はロバの耳~!」と、事実をぶちまけたくもなるが、被害者になるのは常に何も知らない者たちである。
なので、健全な解消法は、若いキレイなオネエチャンのいる店で酒を飲みながら「おっぱい触らせろ~、ケツ触らせろ」と、ふざけてみせるのが正しい。乱痴気騒ぎの後の朝帰り、ひと際険しい眼付きになりなりながら、込み上げる虚しさを吐き捨てる。
刹那の快楽と酩酊に散財しながら、それでも晴れない心の憂さを晴らす為には、リュックに食パンとマーガリンを詰めて山遊びに出掛けたガキの頃のように、人の気配の無い山奥深くへと逃げ込むしかなかった。
藪を切り裂き、獲物を追って進む。ささやかな自然破壊と殺生で、破壊本能の渇きを癒す。山を下りれば、朝早くから夜遅くまで、休日返上の不断の努力で精励皆勤に励み、黙々と働く。
理解に苦しむ複雑怪奇な心情を抱え、決して本性は誰にも明かさない多重な人格を演じながら、世間のニュースや世情に感じ取った欺瞞の気配や憤りに、反論の作文を日記形式で綴る。
「創作のネタは、バーゲン・セールするくらいある。俺に足りないのは、怒りのエネルギーだけだ」
傷付きたくない臆病が、怒りの感情を封じてしまうのだ。
世の不正や不条理を正そうとすれば、自ら争いの最前線に立つ事になる。市井にある大抵の者は1対多数のケンカには不慣れである。自己弁護に長けた古狸ならいざ知らず、拠り所のない徒手空拳の戦いを挑む哀れなドン・キホーテになりたがるオメデタイ馬鹿者はいない。
「賢い処世術とは、体制を批判しつつ、決してそれに逆らわない事である」
(芥川 龍之介「侏儒の言葉」より)
怒り狂う俺の本心と裏腹に、沈滞や無関心を仕方ないと享受する世間との迎合・葛藤に苦しむ。
10代末より患っていた胃潰瘍も悪化していた。日曜の晩飯に食ったパスタを水曜の晩に未消化で吐き出す。そんな状態が続いていた。20代半ばにして、かつて頑強を誇った俺の自慢の肉体が日に日に変調をきたし、痩せ細り、老朽化していった。
「このまま消えていくのも、それはそれで良いじゃないか?」
そんな弱気が頭を横切る。
・・・俺は、勤め先を辞めた。
この体では、もう先がないと追い詰められていた。何度も死線を潜り抜けてきた悪運も、いよいよ尽きたようだ。現状維持に死んだも同然の人生を送るより、明日をも知れぬ破滅的だが確かな手ごたえのある人生を求めて最後の花火を盛大に打ち上げてやろうと目論んだのだ。
(しかし、医者の予言が外れて、その後も生き続ける事になろうとは・・・)
(18)了