社会不安と変革の時代 | yamaのブログ

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2011年10月21日(金)
リビア、カダフィー殺害のNEWSを受けて、書き残す。

世界情勢は、ギリシャの経済破綻とアラブの春というパラダイムの破壊と混乱が蔓延している。
現在ある自分の地位の保全の為なら、それ以外はどうなっても良いという短絡思考と気分が支配的である。
「外野のお前に何がわかる!?」
との反論もあるだろうが、当事者による怨嗟と憤怒の勢いだけで対立し、殺し合うのだとしたら、両者どちらにも正義は無い。
旧弊体制からの解放の喜びに興奮している暇はない。これから先、早急に実現しなければならない新国家体制と秩序の構築は、気に入らないヤツを殺せば解決する、などという生易しいものではない。己れの手で自らの肉を裂き、血を流す覚悟はあるのか?
「繁栄は破壊の後でやってくる」
これは歴史の示す通りであるが、自分自身が変革の犠牲者にならないとは限らない。

チャップリンの映画「独裁者」のクライマックスの演説シーンは、民主主義が行き詰まりを見せた現在に観ると皮肉である。正義や悪といった絶対的な価値観の消失したグローバルな時代において、独裁と民主主義は相反するものではない。
独裁を容認したのも、多数を占めた民衆の選択である。排斥された少数派が辿った末路は悲惨なものであったろうが、それを望んだのも体制側についた大衆である。
大衆が支持する権力体制が理想を実現してくれるとは限らない。日本で例えるなら、この前の政権交代であろう。性急な変革を求めた結果は、失望でしかなかった。取り返しのつかない後悔は、常に多数派の暴走が助長する。
(旧弊した自民党を支持する気は毛頭ないが、民主党には「自・公・民」連立政権として政府与党の実務経験を積ませる機会を与えるべきであった、と俺は持論の正当性を確信している)
だからこそ、慎重で冷静な判断と行動が必要なのだ。緊急の課題と中・長期的な展望の両立を計る視野の広さと綿密な計画がいる。無謀無策の革命は、ただの狂乱であり、復活のない破滅である。諸悪の権化として何者かを血祭りにあげて喝采を挙げるのが革命ではない。
真に自由と解放を求めるなら、自分のみならず、相手の自由をも認めるのである。
「倒せ!、殺せ!!」ではないはずだ。相対化した価値観が占める時代、今や絶対君主はいない。有象無象の大勢の中から一時的に祀り上げられた敵の大将の首をとったからといって、次の大将が出てくるだけだ。不平、不満の芽は、常に大衆の中にある。一方的な利益享受を、彼も、我も、誰も許さない。社会の秩序と平和は、集団をなす者すべて、互いの犠牲の上に成立する。即ち、社会や集団における自由というのは、檻のない牢獄だということは覚悟しておくべきだ。

人間は、理由がどうであれ、いつになったら殺し合いを止めるのか? 
恐らく全滅するまで続けるのだろう。まったく、出来損ないのサルは救い難い・・・
血塗れの自由や平和など、俺は、いらん。吐き気がする。

さて、取り留めのない冗長な駄文を並べてみたが、今後の成り行きは楽観できないのは確定である。
何も地球の裏側の出来事だけじゃない。自分の身の回りにだって崩壊のエピローグが迫っている。
観客の拍手もなく寂しい幕引きとなるか、絶賛の嵐の中でアンコールの幕を上げられるのか?
ま、俺なんぞが心配したところで、どうなるものでもないが。