桜が咲く頃になると必ず思い出すのは、中学校を卒業して進学と就職の勤労学生を始めた高校1年の新学期。通勤・通学の道すがら、川の堤防沿いや古墳公園の桜並木や校庭で咲く桜を怨みがましく思った事である。
勤めていた職場は、社員10名そこらの零細企業。精密機械部品の製造が仕事である。
家から会社まで14キロの道程を自転車で通い、当時の就業日誌を読み返すと入社から4日間、ひたすら「面取りカッターでキー材の面取り」とある。
単純極まりない、退屈な作業である。
高校の入学式で1日休みを空けて、5日目、ヤスリで先日まで面取りしていたキー材の一端にR付け。その頃には指先に出来たマメが2重に潰れ、絆創膏をこれでもか!とばかりに張って、退屈な作業より痛みを噛み殺す事が主な仕事になっていた。桜の花が綺麗だな。などと思える心境には、到底、なれなかった。
桜の樹の下には、死体が埋まっている。死体の養分を充分に吸って、桜は美しく花を咲き誇る。
高校か、仕事か、どちらかひとつなら苦労も半分で済んだものを・・・。仕事と学業の両立とは、自分で言い出した事ではあるが、早くも後悔の念に苛まれた。
しかし、3日坊主で終わるのは勝気な俺の癪に障る。苦難に耐えられず、脱落していく奴を高みから嘲笑ってやるのが喜びである俺の真性サディストの本性が許さない。
唯々、必死で食らい付く。そして、花が散った後の無残な桜の樹を眺めて、内心でザマ~みろ!と吼えた。
5月の連休明け、俺の作業は立型フライス盤に移っていた。指に巻いていた絆創膏は、もう不要になっていた。ヤスリ仕事が無くなった訳ではない。寧ろ、増えていたのだが、金属の切削加工に要求される百分の1、千分の1ミリの精確な作業に手の皮を分厚くしていたら、勤まらない。
3重に潰したマメが直る頃には、手にマメなど作らないヤスリ仕事を体得していた。
そして、月日は流れ、冬。
12月4日の金曜日、学校で鍛造実習をしていた時、実習課題のタガネをベンチ・グラインダーで整形していて事故に遭う。左手親指の、凡そ爪の長さ分を喪失。全治2ヶ月の負傷であった。処置には4時間近くを要した。翌日(手当てを受けて、家に戻った時には当日であるが)、仕事は欠勤したが、学校には行った。
(週休2日制が当たり前になる以前の話である)
欠勤4日目、工場長から電話があった。
「いつまで休んでるのか?どんな状態なのか報告しろ。片手が使えなくても、出来る仕事考えてやるから」との事。
片手がまったく使えない状態で、先日降った雪が路肩で圧雪になってる、自転車にも乗れない状況で会社まで行けってか?
翌日、片道3時間近くかけて、徒歩で出社。仕事は以前と変わらず、両手が必要だが関係ないらしい。学校へ行く為に15時で早退。3時間近くを学校まで歩く。それが年末・年始休業まで続いた。
年が明けて、1月半ば過ぎ、漸く抜糸。我ながら、爬虫類なみの回復力。
左手が使えなかった間に、利き腕を左から右へと矯正し、日常動作のすべて(特に、シャツのボタンを留めるのは片手じゃ辛い)を片手で出来るようにと右腕を鍛えまくる。次に左手のリハビリを始めて、再び春が訪れた。
去年(’87年)8月に生まれた娘の歯が生え揃った(俺の種じゃないが、俺の娘である)丁度、今頃の日曜日。娘を肩車して、夜の散歩に出掛けた。アパートから程近い神社の桜の樹も、花は満開であった。
去年の春は、怨みがましく眺めた桜の花が、街灯の光に照らされて綺麗に見えた。
「お花が綺麗だね」
そんな俺の言葉に、肩車した娘はつまらなそうにしている。娘を前に抱き直して、睨めっこ。
「お前、花には興味ないってか?花より団子のタイプか?」
俺も、人の事は言えない。帰途に就きながら、前途多難な自分の人生を思う。
あれから、20年以上。今年も、桜の季節がやって来た。毎年、忌々しい、と思いながらも季節の移ろいに感慨を覚えない訳ではない。
季節は巡り、人も移ろう。
変わらないものなど、あり得ない。
その日、その日を。Day by day・・・