・人権について
細かい論点についてではなく、作者の基本的認識としての「人権の普遍性」について考えたい。僕が問題とするのは、言うなれば「純宗教的人権認識」と「準宗教的人権認識」の違いである。
前者は宗教は生活習慣の中心に根差しており、人間の精神生活を包括している。
ここでは言葉としての“人権”が全く存在しない、もしくは概念としての“人権”(その宗教における)を補完するものに過ぎない。
それに対し、後者では、生活習慣の中心は宗教ではなく科学に根差しているといえる。
つまり、言葉としての“人権”概念としての“人権”を補完するのではなく、概念としての“人権”を言葉としての“人権”によって紡ぐ社会体系が確立しているといえる。
言いかえれば、前者と後者の違いは言葉の概念の相対的優位・劣位の関係であるといえる。そもそも、西欧における近代科学は、概念(倫理・道徳などと言いかえることもできる)を排除した形で大きく発展してきた。そこで、科学の発展の恩恵を受けつつ社会システムを機能させていくために、改めて概念を生み出す装置が必要となった。
それが、西欧社会における言葉としての“人権”である。
それに対して、宗教的生活習慣に大きく依存してきた社会が、西欧における近代科学の発展の恩恵を享受するための道具あるいは便宜として取り入れたもの、それが非西欧社会における言葉としての“人権”なのである。
さらには、西欧における“人権”は、社会を機能させていく上で中心になる重要性を持っており、また、それを追求することはさらなる科学の発展につながることから、既存の体制から保守的擁護を受けることができる。
それに対して、非西欧における“人権”は、西欧の科学発展の恩恵を受けるための便宜であり、既存の体制から保守的な擁護を受けることはできない。
もちろん、この場合の“保守的”とは、近・現代において相対的に保守的であるという意味であり、“人権”という概念と相対する中世欧州以前のようなシステムを指すものではない。
これまで述べてきた事は、あくまで一面について触れているものではあるが、この点において次のような結論を導くことができる。
つまり、内在的擁護のある西欧的“人権”と、内在的反発のある非西欧的“人権”は、同じ“人権”であっても同様の普遍性を完全に共有することは不可能であるといえよう。
私は、幼児洗礼を受けたクリスチャンであり、それによって、宗教的葛藤について思考する機会に恵まれていた。これは、そんな僕の“人権の普遍性”という論理の対するアンチテーゼである。