表現の自由とは、民主制を担保する政治的発言をする自由であり、政治的発言によって襲撃されたり治安維持の名目で暴力を行使されたりしない事を直ちには意味しないと考える。

体制側に都合の悪い真実を報道する事は表現の自由だが、それによって襲撃されたり暴力を行使されたりする事を防止し回避するのは自助努力と表現の自由に対する公的な配慮を援助・促進する事による。

京アニは表現内容について襲撃を想定していなかった点が、津田大介氏は表現の自由の限界を試すための社会的根回しを欠いた点が非難されるべきである。

その点香港のデモ隊は1民主制を担保し2自助努力し3公的配慮を促進しており、立派な表現の自由の行使である。

翻って中国は、共産党が中華易姓革命の器となる事で民主性を担保する国家構造をしているわけだが、現在の中国は既に易姓革命を終えており、次の易姓革命は遡上に上がっていない。つまり、あらゆる政治的不確定要素について秩序維持の観点から強硬策に出るメンタリティを具備している。九龍神火罩(封神演義の宝貝)を持つ太乙真人はすでに封神されたのだ。

民主主義が「史上最悪の体制(byチャーチル)」なのは、グレートゲームのグランドストーリーが終わっても選挙という名のショートストーリーの作出を強要するからである。

香港の民主性は中国政府にとって唾棄すべき物と映じており、香港が中国の一部である以上、好意的な心証は得られない。中国にとっての表現の自由とは「政治的発言をしないようにする事」であり、決して「民主的デモ」ではないのだ。

中国の政治的懐の深さと香港のデモクラシー。世界世論にアピールしても結局香港のデモクラシーは「易姓革命後の残り火」に過ぎず、新たな革命の火種にはなり得ない。

雨傘革命とか言って悦に入っていたツケを払って消える運命だ。

Leo J Toyama