「反復と差違/ドゥルーズ(和訳)」を空き時間にキチガイみたいに読んでいたが、ヌルい。
完全なるキチガイと言わざるを得ない「アンチ・オイディプス」から「千のプラトー」への狂気の流れが、寛解(かんかい:精神病が治癒する事)を迎えつつある彼ドゥルーズの中で消化されてしまったようで何とも物悲しい気分にさせられる。
ξはドゥルーズ哲学の遷移と共に寛解を迎えるべきなのか?それとも「刀」としてさらに鋭利な狂気を育むべきなのか?
やはり、とりあえずドゥルーズを原文で読むかー
完全なるキチガイと言わざるを得ない「アンチ・オイディプス」か
ξはドゥルーズ哲学の遷移と共に寛解を迎えるべきなのか?それと
やはり、とりあえずドゥルーズを原文で読むかー