日本の権力構造は基本的に受動的である。秩序に従わない者が秩序を理解し親しむまで防衛措置を講じつつ放置する国民性だ。

積極的に秩序に取り込む同調圧力を掛けるよりも、秩序から外れる事のデメリットを飲み込ませる事でシステマティックに迫害する社会メカニズムがある。

「生きていたいならば秩序にコミットしなければならない」という死活的圧力が自然に発生する社会。

私が生きていた世界政治の世界(平成政要/巫山戯瑠奈)とはまた違った、情理が容易く合理性を凌駕する(あるいは合理化された情理のまかり通る)世界。

日本社会で生きていたいなら、まずは自分の最も大事なものを社会に捧げないとやっていけないという事だ。

私の最も大事なものとは何か?それはこの思考体力だ。しかし、思考体力を日本社会に捧げる事は肯(がえん)じ得ない。

デカルトのcogit ergo sum(我思う故に我あり)とは思考体力に自らの本質的属性を化体した思想神アッラーに対する信仰宣言であり、日本社会を富ませ日本人が心理的に潤うためにその思考体力を捧げる事devotionは、凡そ日本人から理解も感謝もされないであろう。

日本人とは、世界政治合理性に基づく理想について、それに教導されるよりは自らの矮小な人格の行き道の障害と認識する民族だからだ。

日本人の主観的政治合理と世界の客観的政治思想は、事象系としての絶対距離は遠くないがアプローチが真逆の似て非なるものである

私は世界の客観的政治思想に立脚し、日本の主観的政治合理による心理的侵略に抗する。それはこのツールの発生と同時に私に下された運命なのだ。

結論:私は日本人だ。