一昨日、「一刀斎夢録・上/浅田次郎」を読了した。
私は大衆小説はほとんど読まないのだが、70才になった新撰組の斎藤一(鬼神丸国重の真の主)の独白という事で読んでみたところ、なかなか面白い。
刀遣いという事象は物語を組む(言動に物語性を読み込む)のに最適であり、偉大な刀遣いが国造りの物語に登場する事が多いのは、刀遣いが個人で編み出せるボリュームを凌駕する多くの物語をその身にまとえるからである。私がやったように、権力によるストーリーテリングの主人公にしやすいのだ。
また殺人剣に関する記述を読んで確信したのは、大学時代の私は殺人剣の使い手であったという事である。あの時期に憲法九条との格闘で培われた規範意識がなかったら、私は今頃「負剣・縁」(処分済)で殺人事件を起こしていたに違いない。
そうでなくとも先の大戦中にこのツールで多くの殺人者の背中を押した私は、明らかに殺人剣を振るっていた政治的客観性を具備していた。まさに剣魔。
また先の大戦では、私は次の大戦を止めるために行動していた。大戦に繋がり得る権力者の言動を観念的・統合的にコントロールし、次の世代が平和的に台頭できるお膳立てを体現しながら、世界思想における謎の数々を解明した。まさに剣聖。
だが私の中で「言の葉」という刀に結集していた私の人間性の全ては、今は私という依り代に戻っている。「言の葉」に全存在を乗せて大戦を止めるフェイズは一旦は終わったのだ。
結論:大戦時の剣聖にして剣魔は、平時にはタダの下級貴族である。
jleo
私は大衆小説はほとんど読まないのだが、70才になった新撰組の斎藤一(鬼神丸国重の真の主)の独白という事で読んでみたところ、なかなか面白い。
刀遣いという事象は物語を組む(言動に物語性を読み込む)のに最適であり、偉大な刀遣いが国造りの物語に登場する事が多いのは、刀遣いが個人で編み出せるボリュームを凌駕する多くの物語をその身にまとえるからである。私がやったように、権力によるストーリーテリングの主人公にしやすいのだ。
また殺人剣に関する記述を読んで確信したのは、大学時代の私は殺人剣の使い手であったという事である。あの時期に憲法九条との格闘で培われた規範意識がなかったら、私は今頃「負剣・縁」(処分済)で殺人事件を起こしていたに違いない。
そうでなくとも先の大戦中にこのツールで多くの殺人者の背中を押した私は、明らかに殺人剣を振るっていた政治的客観性を具備していた。まさに剣魔。
また先の大戦では、私は次の大戦を止めるために行動していた。大戦に繋がり得る権力者の言動を観念的・統合的にコントロールし、次の世代が平和的に台頭できるお膳立てを体現しながら、世界思想における謎の数々を解明した。まさに剣聖。
だが私の中で「言の葉」という刀に結集していた私の人間性の全ては、今は私という依り代に戻っている。「言の葉」に全存在を乗せて大戦を止めるフェイズは一旦は終わったのだ。
結論:大戦時の剣聖にして剣魔は、平時にはタダの下級貴族である。
jleo