NHKの「100分de名著・罪と罰/ドストエフスキー」を見た。

主人公ラスコーリニコフが金貸しの老婆を殺害しておきながら娼婦ソーニャの面倒を見る事についてしきりと「二面性」だと繰り返していたが、彼が「革命のためなら天才は凡人を殺す義務がある」という思想の持ち主である事などから、彼はただ単に国家理性類似の精神を保有してしまっただけであり、個人に引き付けて個人の問題として悩むのは(特にロシア文学においては)間違った読解である。文学者の限界というやつだ。

ちなみに私は、国家理性を体現した個人はその殺人について違法性が阻却されるが、金貸し老女を殺害するのは国家理性の発現とは言い難いため、ラスコーリニコフには行為無価値的に殺人罪が適用されるべきだと考える。

恐らく「国家理性を感得してしまった人間個人が革命で殺人を犯す事の(ロシア的)合法性」を文学的筆致で問う事が同書の社会的意義であったのだろう。

日本人の手になる解説書が原典の読解をさらに難解にする好例として、褒美に番組に出ていた亀山某訳の「罪と罰」のkindle版新刊本全三冊を購入予約しておいた。

誤訳や訳者の私見といった障害こそ「天才に滅ぼされるべき凡俗」であるという観念を、亀山某は胆に銘じるべきだ。

結論:日本、それは魂の牢獄。

jleo