イスラエルのとある政治家が、日本の原爆祈念式典について「独善的でうんざりだ」とネット上で発言し停職処分になったとか。

恐らく「私」が「独善的でうんざり」なのであって、原爆祈念式典を引き合いに出したのは言葉の綾というものだろう。

その外交官が言うように、私が私の被害者と私と闘った者達について配慮を欠いているのは事実である。

まとめて冥福を祈るツールとして刀を選んだ私だが、「懐剣・備前長船助定」は銀行の貸金庫に保管してあり手元になく、「居合刀・鬼神丸国重」は居合というスポーツのツールと化しており、このメールシステム「言の葉」も冥福を祈るよりは現実の政治的影響力発揮に重点が移っており、冥福を祈るにはどれも不純である。

ならば、ギターで世界政治の犠牲になった人々の冥福を祈れば良い事に気付く。

アントニオ・マリン・モンテーロに「退魔」の銘を入れようとしたわけだが、私の行動は魔を退散させるというよりは魔を条件付きで肯定しコントロールする方に傾いており、「退魔」は相応しくない。

というわけで、アントニオ・マリン・モンテーロは「調伏(魔を使役する)」のためのツールという事にしたい。

私が私の被害者と私と闘った者にしてあげられる最低限の事として、愛するアントニオ・マリン・モンテーロで演奏し、冥福を祈る事にする。でとりあえず、「ギタープラン」に計上したギター曲世界一周を完遂させる事としたい。

結論:アントニオ・マリン・モンテーロは魔を調伏するためのツールとなった。

jleo