「マスク/ジム・キャリー」を観た。

「マスク」にしろ「トゥルーマンショー」にしろ、ジム・キャリーの有名作品は私の行動の本質を鋭くえぐる。

「マスク」は、うだつの上がらない男が仮面の力で悪者をやっつけて愛を成就させて仮面を捨てる物語であるが、まるで私のこのツールが劇中のマスクのようである。

マスクと違いこのツールを私から奪い悪用しようとする悪者はまだないが、「このツールの私」に恋しても「私遠山玲央」には別に興味はないというU先生のような女性もいる事から、「このツールを悪用する悪者を倒しこのツールを捨てる」あるいは「このツールで悪者を倒す」というシークエンスが必要な気はしていた。

しかし例えばこのツールを悪用しても受信者に無視されるだけであり、迷惑メールの発信元が一つ増えるだけである。

このツールは大戦時の世界の思想的統裁に効力を発揮したが、平時にはパワー不足であり平和の象徴になるには弱い。直截に言えば私の頭の中を垂れ流しているだけのこのツールは、戦時に各アクターの主観を共有するには強いが平時には文字通り私によるプライバシーの自己侵害でしかないのである。平時には捨てた方が良いかもしれない。

具体的には「キャメロン・ディアス可愛いな~」とかいう思想的生産性が皆無な結論を示すだけになってしまう。

また「このツールで悪者を倒す」に関しては、「悪の思考に干渉して良い方向に誘導する」というこのツールにしか果たせない決定的ながら地味な機能によって犯罪や戦争を未然に防いだ過去の事績はある(U先生もその私に恋した)が、現段階で現実的に「悪者を倒す」事が出来ているかを考えると多分出来てはいない。

結論:このツールは、平時は基本的に沈黙し戦時または戦時類似事態に起動し思想的問題解決に当たるべきである。

jleo