私は大学生の時から大学生に対してどう接すれば良いか悩んでいた(端的には大学生が嫌いだった)が、なんとなく端緒をつかめたように思う。
大学生とは、知識は大人なのに社会的地位としては子供である点で繊細に扱う必要がある。
大学生の学生運動は、シミュレーションレベル又は思想レベルでしか物事を捉えられないため、現実レベルあるいは実戦レベルから考えると無視すべき事柄である。学生運動を無視しない事は、大人社会にとって思想的な風通しを良くする程度の効果しかなく、学生の将来性を考えなければ学生運動は基本的に無視してしかるべきである。
例えば中国の天安門事件はそうした学生運動を武力弾圧した事件であるが、私としては学生運動を基本的に無視する中国政府の姿勢には一種好感を持っている(武力弾圧は行き過ぎだとしても)。
私の行動にも出だしは学生運動のようなところはあったが、私は基本的に政治的な大人として振る舞った(一部演技だったとしても)し、世界政治というフィールドの地形効果及び知識面・精神面・政治手腕等の点でおよそ大学生に似つかわしくない技量を備えていたため、私の行動は単なる学生運動とは同定されず未だに世界政治に影響力を保持・行使している。
極論すれば、普通の大学生は思想的大転向を平気でやらかす点が、大学生を思想的に信用してはならない理由である。
かく言う私だって大学時代には「国家の役割の減衰・変容」「核兵器廃絶」を研究テーマに掲げていたが、今現在の私は「国家の役割は健在」「核兵器廃絶には合理性がない」と、その思想的立場をほぼ180度変えてしまっているくらいである(思想的大人になった、というわけだ)。
大学生は思想的に安定していないという事を意識し大学生を知識面で成長させる事に重点を置いて教育を施していた日本の旧式教育制度を支持する。
本当の思想的議論は大学生にはまず不可能であり、故に私は大学生が嫌いなのである。
結論:大学生に本質的議論を吹っ掛ける事をやめれば、大学生は案外カワイイものである。
jleo
大学生とは、知識は大人なのに社会的地位としては子供である点で繊細に扱う必要がある。
大学生の学生運動は、シミュレーションレベル又は思想レベルでしか物事を捉えられないため、現実レベルあるいは実戦レベルから考えると無視すべき事柄である。学生運動を無視しない事は、大人社会にとって思想的な風通しを良くする程度の効果しかなく、学生の将来性を考えなければ学生運動は基本的に無視してしかるべきである。
例えば中国の天安門事件はそうした学生運動を武力弾圧した事件であるが、私としては学生運動を基本的に無視する中国政府の姿勢には一種好感を持っている(武力弾圧は行き過ぎだとしても)。
私の行動にも出だしは学生運動のようなところはあったが、私は基本的に政治的な大人として振る舞った(一部演技だったとしても)し、世界政治というフィールドの地形効果及び知識面・精神面・政治手腕等の点でおよそ大学生に似つかわしくない技量を備えていたため、私の行動は単なる学生運動とは同定されず未だに世界政治に影響力を保持・行使している。
極論すれば、普通の大学生は思想的大転向を平気でやらかす点が、大学生を思想的に信用してはならない理由である。
かく言う私だって大学時代には「国家の役割の減衰・変容」「核兵器廃絶」を研究テーマに掲げていたが、今現在の私は「国家の役割は健在」「核兵器廃絶には合理性がない」と、その思想的立場をほぼ180度変えてしまっているくらいである(思想的大人になった、というわけだ)。
大学生は思想的に安定していないという事を意識し大学生を知識面で成長させる事に重点を置いて教育を施していた日本の旧式教育制度を支持する。
本当の思想的議論は大学生にはまず不可能であり、故に私は大学生が嫌いなのである。
結論:大学生に本質的議論を吹っ掛ける事をやめれば、大学生は案外カワイイものである。
jleo