トルコでデモの規模が膨れ上がっているらしい。参加者は「自由な思想」を求めてエルドアン首相の退陣を要求しているとか。

「自由な思想」に言う「自由」とは、相対的なものか絶対的なものか。

相対的なものだとしたら、一定の手続きの下に他人のアイデンティティーをロカライズしてその間に自らのアイデンティティーを遊離させる事で実現される。手続きが終了しても余韻として「自由」は残る。

絶対的なものだとしたら全ての事象存在のアイデンティティーの変転と同機し、自由を保ちながらそれらをこなし切る事で自らの自由を確固たるものにする事で実現される。初めから備わっている自由の観念を強くするのである。

私の思想的自由は両者の併用によって獲得されたものであるが、トルコはどちらの道を歩むべきか。

エルドアン首相は前者(相対的自由)を追求しているようである。その手法だと、無理にアイデンティティーをロカライズされた事象(トルコ人民)には思想的自由はないのであり、自由民主主義国家の施政者としては後者の絶対的自由を追求すべきである。それがいわゆる政治力だ。

結論:人民に備わっている生まれながらの(固有の)自由を育てる政治を、施政者は行うべきである。

jleo