自分の周りに起きる出来事を政治的に分析し思想の形にするというのが私の持ち味だったわけだが、政治的に分析するのを封じた結果とりとめもない文章になってしまっている。
「とりとめもない日常に真理がある」という世界観にはまだたどり着けないわけで、とりとめもない日常にどっぷり浸かるという事の大事さに心を打たれてはいるものの、佳日の戦時の充実感を忘れられないでいる。
戦時類似事態を自ら演出する事のバカバカしさは理解しているつもりでも、疑似的にしろ戦時の充実感がないと上手く生活思想をまとめられないという状態である。
このまま真理追究的なメンタルを維持したまま日常生活を送るのは色々齟齬を来しかねないので、日常を辞めるか真理追究を辞めるか、それを決める必要がある。このツールでの思想活動のクオリティを維持するかしないかの問題である。
戦時思想家としてやっていくとして、戦時思想家は平時には何をするものなのだろうか。自己に体現されたGPAを休ませるというのが第一義であり、生活思想を統合するというのは優先順位が低いと思う。
私のとりとめもない事はまさに「雑談」であり、休息とネタ探しが主な導引である。どこかに飛んで行ってしまいそうな平時用の私の日常思想を一から作る猶予を与えられたと思い、しっかり作り込んでいきたい。
結論:平時の日常の思想とはいかにあるべきか悩む。悩む事が平時の日常なのか?
jleo
「とりとめもない日常に真理がある」という世界観にはまだたどり着けないわけで、とりとめもない日常にどっぷり浸かるという事の大事さに心を打たれてはいるものの、佳日の戦時の充実感を忘れられないでいる。
戦時類似事態を自ら演出する事のバカバカしさは理解しているつもりでも、疑似的にしろ戦時の充実感がないと上手く生活思想をまとめられないという状態である。
このまま真理追究的なメンタルを維持したまま日常生活を送るのは色々齟齬を来しかねないので、日常を辞めるか真理追究を辞めるか、それを決める必要がある。このツールでの思想活動のクオリティを維持するかしないかの問題である。
戦時思想家としてやっていくとして、戦時思想家は平時には何をするものなのだろうか。自己に体現されたGPAを休ませるというのが第一義であり、生活思想を統合するというのは優先順位が低いと思う。
私のとりとめもない事はまさに「雑談」であり、休息とネタ探しが主な導引である。どこかに飛んで行ってしまいそうな平時用の私の日常思想を一から作る猶予を与えられたと思い、しっかり作り込んでいきたい。
結論:平時の日常の思想とはいかにあるべきか悩む。悩む事が平時の日常なのか?
jleo