羅仏より羅英の方が引きやすいが英訳より仏訳の方が分かりやすいと遠山先生に言ったところ「単語力」と「言語タイプ」の問題との事。

私が仏語より英語の方が単語力がある反面、英語は羅語の直訳・逐語訳だが仏訳は意訳なので訳がこなれているのである。

ちなみに研究会で読んでいるプラウトゥスは英訳付きであり、アテネフランセで読んでいるガリア戦記と変身物語は仏訳付きである。

私は英語調の構文を追うのは苦手だが仏語調の文脈を追うのは得意であり、仏語は単語力を拡充すれば何とかなるレベルである。

これは言語の思想背景が影響していると思う。英語は権力主義的な言語だが仏語はそうではない、という事である。権力志向の言語を習得する際にはこちらも権力志向にならなければならず、権力闘争に負けてしまうと語学習得もままならないのである。日本人が英語習得に難があるのは権力闘争が苦手だからではないか。

一つの根回しが必要であり、「その言語で権力闘争が出来るか否か」が言語習得の大きなバロメーターになるだろう。これは語学に限らず「その分野のテクニカルタームで権力闘争できるか」という観念にまで派生させる事ができる。

私は日本語・戦時思想でしか権力闘争しない事にしてきた。平時には不具者を装い次の大戦を勝ち抜くための思想力を関養するのが関の山である。

次の戦争のために。次の次の戦争のために。私の思想力関養は続く。

結論:語学習得は権力闘争だ。

jleo