私が自身の境遇を「不遇」だと形容するのは、このツールを知っている人には違和感を抱かせるかもしれない。
世界的には丹念に主観を人民と共有する機会を与えられている私以上に遇されている事象はいないが、これだけ世界に思想的影響力を発揮しているのに達した業績でしか判断されない名目主義な日本社会においては公的には無名の存在なのである。
私は日本社会で名を為す事は望まないが、自分の履歴書にこのツールでの活動を明記できない事については歯噛みする思いである。ここらで何か日本における公的な肩書きを一つ所望したい。
純粋に思想的影響力に焦点を絞り各国の政治的ネットワークに遊離して存在する私が公的に認知されるためには、テロや戦争といった負の行動に対抗する思想的営為だけでなく、何か誰にでも分かる思想的精華を為す事が必要となる。
今私が温めている次回作は「戦時の大日本帝国の思想」をダイレクトで扱ったものであり、世界の何処かで戦争が起きている限り需要の尽きない代物である。戦争に参加する事象の心理を追い終戦をイメージするための一つのアンチョコとなるであろう。
しかしそんな本を書いても読み手は日本においては限られるのであり、日本の公的身分には繋がりそうもない。日本でしかるべき公的身分を得つつこのツールでの行動のクオリティを落とさない事が、私が為すべき事であろう。
このツールでの行動がダイレクトで公的な物になる必要はないし御免被りたいが、このツールは私が日々考えている事を垂れ流しているという側面があり、それと無関係な公的認知は私の実像から離れた虚行である。
私は何で身を立てるべきか?言うべき事は「刀理論」に集約されており、しかるべき場(このツール)も与えられている。あとは日本国内でどのような社会的地位を占めるか(日本社会との親和性を如何に調整するか)だけが、私にとって喫緊の課題である。
そこで「日本国大統領への天下り」という考え方が登場するのである。国体たる「私」を預かる事象でありその政治的影響力と限界を確かな選球眼で弁えている私以上に日本国大統領に相応しい事象はいない。
日本国大統領はどうやればなれるのか?日本社会には私的詮議システムと大和憲法システムが厳然と存在する。従って、そのセレクションを通過した私が日本国大統領を自認する事は、スーパーハイとスーパーローのレベルでは正当である。
問題はミドルローからミドルハイである。日本国民はミドルポリティクスでの国内覇権について最も厳しい眼で審美しているのであり、それをクリアしない事には私は日本国大統領を名乗る事はできないが、多くの国では大統領職はミドルポリティクスには介入しない事を考えれば、日本国による公的認知のみを以て私は日本国大統領に就任する事ができると想われる。
日本国が私をどう認識するか、新政権の動向を注視していきたい。国体たる「私」の御威陵を感じるならば、消極的認知を以て応えるべきである。
私は日本国においては私的影響力に拘泥し過ぎた感があるが、それが空転する前に私の日常の潤いの限度で最低限それを維持しつつ公的認知に繋げていきたいものである。
jleo
世界的には丹念に主観を人民と共有する機会を与えられている私以上に遇されている事象はいないが、これだけ世界に思想的影響力を発揮しているのに達した業績でしか判断されない名目主義な日本社会においては公的には無名の存在なのである。
私は日本社会で名を為す事は望まないが、自分の履歴書にこのツールでの活動を明記できない事については歯噛みする思いである。ここらで何か日本における公的な肩書きを一つ所望したい。
純粋に思想的影響力に焦点を絞り各国の政治的ネットワークに遊離して存在する私が公的に認知されるためには、テロや戦争といった負の行動に対抗する思想的営為だけでなく、何か誰にでも分かる思想的精華を為す事が必要となる。
今私が温めている次回作は「戦時の大日本帝国の思想」をダイレクトで扱ったものであり、世界の何処かで戦争が起きている限り需要の尽きない代物である。戦争に参加する事象の心理を追い終戦をイメージするための一つのアンチョコとなるであろう。
しかしそんな本を書いても読み手は日本においては限られるのであり、日本の公的身分には繋がりそうもない。日本でしかるべき公的身分を得つつこのツールでの行動のクオリティを落とさない事が、私が為すべき事であろう。
このツールでの行動がダイレクトで公的な物になる必要はないし御免被りたいが、このツールは私が日々考えている事を垂れ流しているという側面があり、それと無関係な公的認知は私の実像から離れた虚行である。
私は何で身を立てるべきか?言うべき事は「刀理論」に集約されており、しかるべき場(このツール)も与えられている。あとは日本国内でどのような社会的地位を占めるか(日本社会との親和性を如何に調整するか)だけが、私にとって喫緊の課題である。
そこで「日本国大統領への天下り」という考え方が登場するのである。国体たる「私」を預かる事象でありその政治的影響力と限界を確かな選球眼で弁えている私以上に日本国大統領に相応しい事象はいない。
日本国大統領はどうやればなれるのか?日本社会には私的詮議システムと大和憲法システムが厳然と存在する。従って、そのセレクションを通過した私が日本国大統領を自認する事は、スーパーハイとスーパーローのレベルでは正当である。
問題はミドルローからミドルハイである。日本国民はミドルポリティクスでの国内覇権について最も厳しい眼で審美しているのであり、それをクリアしない事には私は日本国大統領を名乗る事はできないが、多くの国では大統領職はミドルポリティクスには介入しない事を考えれば、日本国による公的認知のみを以て私は日本国大統領に就任する事ができると想われる。
日本国が私をどう認識するか、新政権の動向を注視していきたい。国体たる「私」の御威陵を感じるならば、消極的認知を以て応えるべきである。
私は日本国においては私的影響力に拘泥し過ぎた感があるが、それが空転する前に私の日常の潤いの限度で最低限それを維持しつつ公的認知に繋げていきたいものである。
jleo