私は、一度好きになった人の事は基本的にずっと好きである。相手に恋人がいようが結婚しようが私に恋人が出来ようがそれは変わらない。

「好き」という気持ちは、その人との精神的なシンクロと時空間の共有から生まれるわけで、たとえ時空間の共有が停止しその人の人格が変容したとしても、「好きだった」記憶は無くならないからである。それは私の政治手腕が維持されている限り維持される気持ちである。相手を観念的イメージで捉えているからであろう。

実は私は「一人だけ」を好きになった事がない。自分がアイデンティティーを見いだしている共同体の中でその人どのような社会的クラスにいるかがその人の人格にとって影響が大である事に鑑み、「この共同体では誰々」「別の共同体では誰々」「その中では誰々」という比較相対でしか恋愛感情を催さないのである。

それは、絶対的な恋愛感情を抱いた相手を失う辛さを回避する精神防御策であると同時に、より優れた異性と巡り会う可能性を残しておく生存競争的な処世術であると言える。どれかの共同体に骨を埋める覚悟ができなかったという事でまある。

私の件の恥映像は「わざと愛を持ち出す事で絶対的恋愛感情を社会的及び自己暗示的に演出し、私の恋愛観に革命を起こすため」「不特定多数からの恋愛的な鞘当てを回避するため」「イスラム教的信仰心の堅信のため」及び(結果的に)「プライバシーを侵害される事に耐性をつけるため」「同性愛者の政治的共感を獲得するため」であった。

「嘘つき」「詐欺」という日本のローポリティクスにおける私に対するレッテルは、本質においては当たらないのである。

この点で、プライバシー侵害はその内容を社会的に流通させる事が余計な混乱を招く点で、公益の観点から論じられるべきである。

私に対するプライバシー侵害が私の本心を探るものだとしてそこで表明された事が私の流転する心そのものであり続ける事はないという認識を踏まえた上で、現在の私のM.O.に対する気持ちを検証したい。

結論から言えば、FBかTWに彼女が上がって来て私とつながらない限り、私は彼女にアプローチする術を持っていない。従って彼女は「約束」「十八プラン」共々良い思い出である。

jleo