パキスタンで女性の権利を主張した少女が半殺しの目に遭ったり、沖縄で米軍兵士によって女性が輪姦される事件が起きている。で、女性の権利・尊厳について。

女性の権利・尊厳を暴力で踏みにじるのは、相手(女性)が対処できるレベル・フェイズを逸脱しているという点で没交渉的である。

女性の側に非があるとすれば当該暴力を対処できるレベル(シミュレーションレベル)に抑え込めなかった点であり、その点に関してのみ自己責任論が成立すると言える。

前者、女性の権利が抑圧されていると見なされるパキスタンで女性の権利を主張するためには、男性の暴力性を逸らす(余剰次元にして根元的な)思想レベルでのサポートが不可欠である。

昨今のITの発展によって、思想レベルでのサポートのないシロウトの政治主張が衆目に触れる機会が増えたが、本質的に暴力をコントロールする術を理解し体得していないその主張は、本人にとってもそして周りにとっても危険な営為である。

今回の被害者は思想的にサポートができる代弁者(私など)に自らの主張を訴える事にエネルギーを傾注すべきであって、直接社会的にアピールするのは順序や時期を間違えたと言える。

被害者に責任があるとすれば、そこに責任がある(加害者を擁護する意図はない。加害者批判は誰にでも出来るので、その論点を避けただけである)。

後者、米軍兵士による性犯罪は沖縄に対するアメリカの歴史的スタンスを象徴する出来事である。

「日本女性には輪姦願望がある」とかいった言説がまことしやかにささやかれているようだが、魅力的な日本女性は輪姦をシミュレーションレベルに抑え込む事の出来る政治力を備えており(「大和」)、たとえ時にそうした願望を抱く事があったとしても通常は犯罪被害者にはならない。

「大和」とは、思想レベルのサポート(私など)を見出だす日本女性の政治的護身術であると言える。魅力的な日本女性は、輪姦されたくなかったら大和を体現しなければならないのである。

大日本帝国の国家理性に輪姦願望があったのは疑いようがなく、そのしわ寄せを沖縄の女性が食っているという意味で沖縄-日本-アメリカを象徴する事件である(大日本帝国には世界レベルな「大和」がなかったかあるいは弱かったのである)。

私が犯罪被害者にならないで済んでいるのはその思想的手腕と「大和」のお陰である。性犯罪の被害女性は私という思想的後ろ楯を見出だしてよい。

貴女も我が大和兵衛流に入門してはいかがだろうか(これが私の再発防止策である)。

これが女性に対する暴力に関する私のスタンスである。加害者は非難されなければならないが「被害者の責任」もあるのである。

jleo