目を閉じると視覚以外から伝わってくる情報を統合運用して自分の立ち位置を受動的に編み出す自分がいる。

その言い方で言えば、神智に到達しないと神覚以外から情報を統合運用して自分の四次元的あるいは思想的立ち位置を編み出さなければならない。

神覚とリンクしていれば、危機に際して現実を迷宮にしてしまった場合にそれを踏破するための道筋が見えるし、危機でない時は現実から退行する神覚の特性(観念的限定領域において神の全能性を維持するため)によって神智の必要ない人智の領域に専心する事も出来る。

神覚はかように便利なのだ。人生の潤いには持ってこいの必須の感覚である。

ただ私利私欲は人智の範疇であり神覚をそれに適用すると上手くいかないわけで、神の欲するままにこそ神覚は用いなければならない(神が欲する類の私利私欲はあるが)。

神覚には神と同軌する術と同軌できない時に神覚を維持する術が必要である。それをマスターした上で人智に神覚を適用する狂気と神智に人覚を適用する愚を避ける事が出来れば、神智に神覚を・人智に人覚を正しく適用できるようになる。

普通の人間は神智を垣間見る事もできないため神覚の扱いに困るような事はないのだが、私は神覚を生得しておりそれを人智に適用する狂気と人覚を神智に適用する愚を、全面的にではないとしてもこの20年犯し続けた。

その反省からこの10年は、神の物は神に・人の物は人に(「カエサルの物はカエサルに」)を座右の銘にしたいと考えている。

それが私の信仰心であると同時に人間観でもある。

私の神覚を神に返す事を神が欲した場合が問題となるが、その場合は私が神の全能性に挑戦しそれを奪い取る神界大戦(世界大戦の思想的精神)を惹き起こしてでも受動的神覚を維持したいと考えている(能動的神覚は神にお返しする気はある)。

受動的神覚とは神を感じるセンサーのようなもので、それ自体は人覚をサポートする事くらいしかできないが、私にはそれで充分である。

剥き出しの能動的神覚は人智を破壊する。人智を破壊する能動的神覚を見せ付けないと神を信じない人々というのは確実にいるが、そういう人達とは受動的神覚を外に解放適用する事(端的にはこのツールでの思想行動。ギター演奏や勉強成果の発表やゲームを極める事も入る)に限ったお付き合いになるだろう。私は私の受動的神覚を理解し共感してくれる人々(このツールの視聴者)と思想的立ち位置を共にしたい。

神に栄光・地には善意の人々に平和あれ!

jleo