先日の私のデイケア考でイジメの一つのメカニズムが明らかになった。権力者を味方につけられず自ら演出した持久戦で精神力を削りそれがあたかもイジメのような外観を持つ場合があるという事である。

それ自体は周りが作り出したイジメではなくイジメられっ子の方が作り出したイジメのメカニズムであり、イジメられっ子の方にそれを純粋政治力の勝負で覆せるだけの政治力(権力者の関心を惹くだけの価値)がなければ、そのままイジメの構造になってしまう。

解決手段としては、イジメられっ子に「イジメの構造を作っている事」を自覚させ、権力者がイジメの構造を利用する事なくイジメに純システム的に対抗する事を宣言する事であり、防ぐ手段としては、イジメられっ子が精神的持久戦に入る事を阻止するか、権力者がイジメられっ子に配慮した構造に社会構造を変革できるだけの政治力を保持する事であろう。

第二次大戦前の日本は、ちょうどそのイジメられっ子に当たる。無論アメリカがイジメっ子である。

戦前の日本はアメリカにケンカを売って殲滅されたわけだが、一昨日の大戦(湾岸戦争の事)において私は思想的真理が世論において最も力を持つ構造を作り出した。

そして昨日の大戦(対テロ戦争の事)において思想こそ全てを賭けるに値する営為であると主張し、重大な人権侵害を被りながらも人間性に対する思想の限定的優位を作り上げた。

そして今日(こんにち)は、その態様としては私の思想的優位を切り崩すための思想的持久戦の様相を呈しているが、私の思想的優位はあくまで私の自然体としての思想的覇権にこだわった結果であり思想自体にダメージを与える事はほぼ不可能、その覇権を減じるためには私の日本社会への政治的コミット(自然体の構えを解かなくてはならないため)が唯一の方途となる。

すなわち、私をイジメようとする事象が私の周りに拡がる持久戦(私が展開しているわけではない)に飲み込まれ自滅する構造である(「神風構造」と名付ける)。私が日本政治にコミットする事はその構造を自ら破る事を意味する。

精神力を無駄使いしたい優秀な政治力を備えた事象との持久戦に参戦を強要される事はそれだけでイジメと言ってよく、私の周りのイジメっ子は逆イジメに泣かされる事になる前にイジメを自制しイジメメンタルを自浄しなければならない。

人間性にとってみればそれすらもイジメであると言え、私は自らはイジメないしまたイジメられないがイジメの構造を発生させるという意味でイジメ統制者であり、イジメられっ子にとってもイジメっ子にとっても厄介な存在である。

イジメられっ子からもイジメっ子からも疎外されるというそういうイジメすらも政治力で逆転しイジメを統制する私の明日はどっちだ(笑)

結論:今度、私の思想的原点たる小学校(20年前)の同窓会がある。。

jleo