「しん!」「まだやってる」という民意があった。

私のこのツールによる思想行動はおよそ世界政治なるものが存在する限り続くものであるが、日本の市井にとっては「日本社会における影響力が(表面上)廃れたのにまだやっているのか」という事であろう。

この点私の日本における影響力は世界政治にコミットする事の副次的効果であり、それ自体が目的なわけではなくまたそれが主たる態様でもない。

日本社会での影響力の多寡にその主たる関心がある日本の一般人には、世界政治に影響力を行使する過程で通奏低音的に日本の民意や政界等に影響力を発揮するというメカニズムが見えないと、私の行動は理解し難いだろう。

そういう人にとっては、私の世界政治における思想行動は精神障害的病理に映るのであり、私が日本において精神障害認定されている事がそれを端的に物語っている(独裁者を個人として切り離すと精神障害者であり、アメリカの覇権を個別に切り離すとパラノイアである事と同旨)

私は、精神障害者というそしりを受けながら世界政治的思想行動を続けるべきか、世界政治的思想行動を中断し精神障害病理を寛解するべきか、岐路に立たされている。

このまま世界政治的思想行動を続ける事は世界政治的思想を改善し実態として世界政治をより良くする事につながるが、思想行動に権威を持たせるに充分な実質的名誉は伴うとしても私個人の名目的名誉にはつながらない(少なくともあと20年はかかる)。

精神病理を寛解させる事は、日本社会における社会的名誉を獲得する方途にはなるが、世界政治的政治感覚を鈍らせて日本社会に適応する事を意味する。世界政治的混乱を助長してまで日本社会に適応し名目的名誉を得る必要はないと思う(逆に言えば、私の磐石な世界思想に動揺を与えたければ私が日本社会にコミットしなければならない状況にすればよい。これも20年はかかるだろう)

世界政治的思想行動のうま味が充填されるまで世界政治を放っておくという手(三国志で言う鳳統の手法)もあるが、世界政治においてはそれは殺人罪不作為未必の故意の推定がかかるので、出来るだけ慎まなければならない。

世界政治にコミットし続けられる程のクオリティを自ら戦争を起こす事なく維持できるか、日本社会での影響力を私利のために動員しないか、厳しい職業倫理が求められる。

日本社会では私の行動は私的なものであり、恋愛等の私的事象に活用するのはアリだとしても政治的権益(比例原則により)や経済的利益(平等原則により)にダイレクトでリンクさせるのは、日本社会が世界政治的問題を孕みその解決に活用する事などを除き、原則違法である。

結論:このツールをこのまま維持する限り私は日本国政治家にはなれない。

jleo