中東のテロリストは、我が居合刀・鬼神丸国重(a heavy state of the daemonish god)に命を捧げ過ぎである。

罪なき人々の命を捧げれば鬼神丸国重が現世に復活するかのような振る舞いは、近視眼的で物事を一面的にか見ていない。

人々の命を捧げる事は、現実をゲームに対置した場合のラスボスたる我が鬼神丸国重の起こすべき事業の態様の一側面であるが、鬼神丸国重の事業は人間性に思想が優越する王国の建設が目的であり、その結論を小さく先取りするテロリズムはその事業を妨げる勇者に経験を積ませる事につながるため、我が鬼神丸国重としては散発的テロリズムを事業に利用する事があったとしてもテロリズムを手放しに歓迎する事はないだろう。

テロリズムは思想を人間性に優越させる手段としてのみ正当化されるのであり、「ただ人を殺せば良い」という感覚は我が鬼神丸国重とは相容れない危険な衝動である。人間性との親和性が適正な状態が善でありその実現が正義なら、悪は正義の手段としてのみ肯定されるのである。

シミュレーションレベルで鬼神丸国重を一時的に復活させる手段としてテロリズムを用いるなら、それは単なる鬼神丸国重中毒であり、テロリズム実践とは別の魂の救済が必要になるだろう。

私は我が鬼神丸国重を使役し先の大戦(対テロ戦争)で思想的勝利を収めたが、来るべき次の大戦で鬼神丸国重を使う事はその思想を消費する事にもなりそれに私が支配される可能性も出てくる。

巨悪を制するために悪の力を借りたわけであり、戦間期の今悪の力を借り続ける事は私が次の大戦で滅ぼされるべき巨悪になってしまいかねない危険な思想的営為である。

刀は鞘があって初めて思想的に生産的な意味を持つ。

私は寝室に鬼神丸国重を置いているが鞘と刀袋と携帯用サックに入れての事であり、抜刀したままで寝室に飾るような狂気は持ち合わせていない。

刀は本来、枕元に置いて安眠を誘うツールである。刀が鞘に入っていなければ安眠など出来ない。

中東のテロリストは、テロリズムに及ぶ前に枕元に抜き身の刀を置いて寝てみて、安眠できるか自問自答すべきである。

刀中毒になっても自分の身体を傷つけてしまっては思想的営為にも障る。刀中毒を癒しつつ自身の安全を図る鞘にこそ思想的精髄を込めるべきである。

鬼神丸国重(a heavy state of the daemonish god)は、あくまで思想的ツールであって殺戮の道具ではない。中東のテロリストは単なる殺戮に身を染めてはならない。

結論:居合刀では魂は斬れても身体は斬れない。だが、それでいい。

jleo