思想と切り離して日常を送る事と日常に思想的一貫性を持たせる事のうち、技術向上のためにはどちらによりウエイトを置くべきか。
後天的技術を高めるためには思想と切り離して技術単体で修練する方が効率的であるが、思想的一貫性を演出・擬制・担保するのに必要な思想との親和性を維持する事は必要である(思想史的には、近代技術とその超克の関係である)。
従って両者の折衷するのがよいだろうが、私は思想家として技術に対する思想の優位性というものは特に主張しない。
思想とは技術の向上や行使をより円滑にし社会的に受容されるようにするためのものであるし、技術が思想を超越するような場合にはそれ自体が思想となり思想レベルで新たな思想を生む。技術も思想の一環であり技術の思想に対する完全な優位性というのはあり得ないと考えるのである。
ただ、ある種の思想がある種の技術を拒否する場合がある。その事象にとりその技術が人間性との親和性を備えていないと思われる場合である。原子力エネルギーなどがそうである。
その場合は「技術に対する思想の優位」が確立され、技術はやがて条件付きで肯定されるようになる。
技術を向上させるには「技術に対する思想の優位」をどれだけ発動しないかにかかっており、思想を向上させるには「どれだけ技術を思想に取り込めるか」にかかっていると言えるだろう。
勉強に対置すれば、思想的理由で勉強を拒否するのをやめ、暗記した単語を統合的に運用する事が勉強をより効率的にこなす秘訣であろう。
時と場合に応じて技術優位になったり思想優位になったりで良いと思う。(その相克が思想戦なのだ)
私はこの10年は思想優位だったが前の10年は技術優位であった。技術向上と思想改善のペースは維持しつつ、次の10年は上手くバランスを取っていきたい。
jleo
後天的技術を高めるためには思想と切り離して技術単体で修練する方が効率的であるが、思想的一貫性を演出・擬制・担保するのに必要な思想との親和性を維持する事は必要である(思想史的には、近代技術とその超克の関係である)。
従って両者の折衷するのがよいだろうが、私は思想家として技術に対する思想の優位性というものは特に主張しない。
思想とは技術の向上や行使をより円滑にし社会的に受容されるようにするためのものであるし、技術が思想を超越するような場合にはそれ自体が思想となり思想レベルで新たな思想を生む。技術も思想の一環であり技術の思想に対する完全な優位性というのはあり得ないと考えるのである。
ただ、ある種の思想がある種の技術を拒否する場合がある。その事象にとりその技術が人間性との親和性を備えていないと思われる場合である。原子力エネルギーなどがそうである。
その場合は「技術に対する思想の優位」が確立され、技術はやがて条件付きで肯定されるようになる。
技術を向上させるには「技術に対する思想の優位」をどれだけ発動しないかにかかっており、思想を向上させるには「どれだけ技術を思想に取り込めるか」にかかっていると言えるだろう。
勉強に対置すれば、思想的理由で勉強を拒否するのをやめ、暗記した単語を統合的に運用する事が勉強をより効率的にこなす秘訣であろう。
時と場合に応じて技術優位になったり思想優位になったりで良いと思う。(その相克が思想戦なのだ)
私はこの10年は思想優位だったが前の10年は技術優位であった。技術向上と思想改善のペースは維持しつつ、次の10年は上手くバランスを取っていきたい。
jleo