今週のギターレッスンが終了した。レッスン内容は「多少進歩したのは認める」との事。
レッスン後「運命を感じる曲がない」と言ったところ、「レオがそれを感じるところまで行っていない」「アストゥリアスも面白いがプレリュード一番/ビラ・ロボスの方が曲としては面白い」「それが解るには時間かかる」と言われた。
思想史において「シャコンヌ(聖戦)」の次に来るのは四季の移り変わりという私の過日のプランニングであるが、四季の移り変わりよりジハードの方がインパクトがあるのは当然であり、従って「シャコンヌ」に感じたような思想的インパクトに匹敵するものを四季組曲(仮)に感じないのかもしれない。「シャコンヌ」中毒と言ってもよいだろう。
私が「アストゥリアス」と「大聖堂」に感じた運命は間違っておらずまた「シャコンヌ」に感じている使命も正しいとして、私は「聖戦」の次の「日常の潤い」に思想的軸足を移しつつあるが「聖戦」を忘れられないし忘れるべきでもないと考えているという事である。
・・ギター曲としての運命ではなく思想的運命を意識するから運命を感じないのかもしれない。
クラシックギターを思想的ツールと見るのは一理以上の何かがあったが、「シャコンヌ」を経た今「ギターはギター、思想は思想」という分別が必要かもしれない。
その意味での四季組曲なのである(そこまで想定している私のプランニングは完璧と言っても差し支えないだろう)。
jleo
レッスン後「運命を感じる曲がない」と言ったところ、「レオがそれを感じるところまで行っていない」「アストゥリアスも面白いがプレリュード一番/ビラ・ロボスの方が曲としては面白い」「それが解るには時間かかる」と言われた。
思想史において「シャコンヌ(聖戦)」の次に来るのは四季の移り変わりという私の過日のプランニングであるが、四季の移り変わりよりジハードの方がインパクトがあるのは当然であり、従って「シャコンヌ」に感じたような思想的インパクトに匹敵するものを四季組曲(仮)に感じないのかもしれない。「シャコンヌ」中毒と言ってもよいだろう。
私が「アストゥリアス」と「大聖堂」に感じた運命は間違っておらずまた「シャコンヌ」に感じている使命も正しいとして、私は「聖戦」の次の「日常の潤い」に思想的軸足を移しつつあるが「聖戦」を忘れられないし忘れるべきでもないと考えているという事である。
・・ギター曲としての運命ではなく思想的運命を意識するから運命を感じないのかもしれない。
クラシックギターを思想的ツールと見るのは一理以上の何かがあったが、「シャコンヌ」を経た今「ギターはギター、思想は思想」という分別が必要かもしれない。
その意味での四季組曲なのである(そこまで想定している私のプランニングは完璧と言っても差し支えないだろう)。
jleo