今夜はギターの師のリサイタルであった。

演目はビラロボス・ヨーク・バリオス・アルベニス・バッハ等聴いた事のある曲がほとんどだった。

いつも思うのだが、師の演奏は心が洗われた感じはするが「感動して自分も弾きたい」と思わせる事がない。今日のリサイタルも、弾きたいと思える曲には出会えなかった。

セゴビアによる「アストゥリアス」やジョン・ウィリアムスによる「大聖堂」は感動するとともに「自分がこれを弾くんだ」という運命を感じたわけであり、「シャコンヌ」も政治士官たるギタリストの帰決としての必然であるが、その他の曲は初級曲である「禁じられた遊び」「グリーンスリーブス」を除き運命を擬制する事すらできない。

で、政治思想をしばらく離れて季節物に逃避するわけである。技術水準の維持と政治的休息が目的であり、「逃げ」と思われても仕方がない。

私はギタリストである以前に思想家であり思想的に意味のない曲には運命を感じないわけで、そういう運命を感じる曲にはもう出会えないかもしれないと半ば諦めている。

今度師に相談してみようと思う。

jleo