戦後日本の政治にダイナミズムがないのは、庶民が国家の政治的名誉に日常の潤いを求めないからだと想う。

昔の日本では庶民は基本的に貧しく日常の潤いを観念的なものに求めざるを得なかったが、第二次大戦を経て国家的名誉と日常の潤いをリンクさせて痛い目を見た事、そして今の日本が「飽食」である事から、日常の潤いを国家観念的なものに求める事がないのである。

世界には「大日本帝国(抜刀)」と「日本国(納刀)」と我が「日本帝国(操刀)」の各段階の国家がある。

日本の事例をそのまま適用するのは浅はかであるが、日本の各段階のメカニズムを諸国の類似行動の説明因子として活用する事はかなり有効である。

私が「日本という刀」と親和性を高める事で世界情勢を説得的に説明できているのはそういう事である(『日本は世界の刀』とはその意味)。

日本には世界中の構造的暴力がシミュレーションレベルで滞留しており、政治家がマネジメント仕切れないおいしいとこ取りの政治が実践されているのであって、こんなに研究対象としてあるいは政治を実践する場所として興味深い国があるだろうか(ダイナミズムはないが)。

jleo