人間は社会生活上その暴力性を完全に放棄する事はできない。

人が暴力的かどうかは、暴力性を発散すべきところで発散しているかどうかの問題である。

発散しないようにしているうちに発散する必要がなくなる(観念的構造に吸収される)というメカニズムも含めて、人間が日常の潤いを維持・伸長する範囲でその暴力性を発散すべき場を作り出すのも(それを最小限にコントロールするという意味で)また政治思想の仕事である。

そして世界政治の舞台は政治思想という名のエクストリーム・スポーツの闘技場なのである。

私はその世界政治の舞台で刀遣いの刀遣いによる刀遣いのための政治(politics of/by/for the sword-master)を実践したいと考え実行してきた。

刀遣いを葬り封じ込める平時政治を憎み刀遣いが惹起する戦時政治に敵対し、納刀の能力と操刀の能力を高める事を志向する事で、刀遣いの住みやすい世界にする政治である。

捨てられない暴力性を言葉に乗せて「言の葉」を帯びれば誰もが刀遣いであり、私と我が党の支持母体はおよそ人類全部である。

だが、日本の大衆のように「暴力性を放棄した」という事実誤認の自己暗示にかかっている集団は私の支持層ではない(彼らは私を支持しないだろう)。

自ら暴力性を放棄したと事実誤認している無責任な(日本の)大衆が我が党の敵であると断言できる。

従って、彼らに「言の葉」を帯びさせ我が党の支持母体に転化させる事が我が党の政党運営方針の一つの柱となる。

jleo