4.社会的生物たる人間としての『平和』(社会学)
以下、「社会的・肉体的・心理的な生存が人間の本性であり、その維持・発展が勝利である(換言すれば敗北しないという意味で)」という観点を大前提に論を進める。(この大前提に対して懐疑を向けることは本稿では避ける)
社会的生物たる人間は、なにか外部的な価値を他者と共有することによって自らの存在意義を化体させる属性を選び取る(普通、消去法による)ことで生きているといってよいだろう。他者と共有するものがなければ人間は生きていけない。
たとえ、その共有するものがある争点に関する軋轢であったとしても、両者の間にコミュニケーションが成り立つ糸口がある限り何らかの価値あるいは時空間的認識を共有できる。
そこでの、お互いのアイデンティティを消滅させない程度の回復可能な程度のアイデンティティの傷つけあいこそが、お互いの関係と共有した時間を脳に記憶させる刺激となるのである。それを通して自己を認識するところに人間の人間たる本性があるといえるだろう。
換言すれば、そうした小競り合いの状態が人間社会の本来の姿なのである。それを封じることは大規模な争いを生み、回復不可能なアイデンティティの喪失(社会的・肉体的・心理的な死)を伴うものに発展してしまう。その意味においては戦争は人類社会の必然であると言わざるを得ない。
そのためそれを否定するためには、小競り合いを封じることの代償をすべての構成員が認識し、それを共有することでそれを糸口に半ば意識的に半ば無意識的にコミュニケーションツールを設定し、それによって生きることが必要になってくる。
そこで”平和”とは「構成員同士が回復可能な程度にアイデンティティを傷つけ合うことを構成員そして共同体がある程度許容している状態である」と私は定義する。
ちなみに、この定義に沿って定義するなら、”戦争状態”は「構成員同士が回復不可能な程度にアイデンティティを傷つけあうことを構成員そして共同体がある程度許容している状態」と定義され、また”テロ”や“犯罪”は「構成員が回復不可能な程度にアイデンティティを傷つけあうことを構成員そして共同体が許容していない状態におけるアイデンティティへの回復不可能な程度の攻撃」となる。
5、最後に
様々な形で分析してみたが、結局、人間が他者との相対化で自己を認識する生き物であり、それまでの過去を元に未来を予測して生きる生き物であり、必死に自己を肯定しようと思考する生き物であり、そして勝利を好む生き物である限り(これらの点に該当しないことは普通はないだろうが)、思うに”不完全なゆえに完全である”という論理(普通人はこれを不合理という)を受け入れない限り完全な勝利はないのではないだろうか。
以上