1.勝利という価値の多元性(哲学)
アクター(行為主体)によって勝利の概念はそれぞれ違うだろう、なぜそのような違いが生じるのか、私はその原因は価値の顛倒に他ならないと考える。
軍事力の場合を例にとれば、軍事力を持たないものあるいは軍事力を発揮する機会のないものが、自らの正当性を誇示するためにその時点で軍事的に勝利しているものを否定するという過程を経ることで、勝利の概念がアクターによって違ってくるのである。
軍事力が圧倒的なアメリカに対する批判は非軍事的なものとなるし、経済力が圧倒的な日本に対する批判は非経済的なものになる。それぞれ最も得意とする分野で批判してもそれ以上の力で反撃されるからである。本当の勝利を望むなら、相手の最も得意としている分野つまりはその相手の存在意義が化体している属性において戦いを挑みそれに勝つことを期すべきである、そのためにはまず相手の存在意義をなんらかの属性に化体させる必要がある、そしてその属性は自らも持ち得るものでなければならない。
基本的に人間は敗北を好まない。普通人間がそれまで自らが拠って立ってきた属性を正当化する論理に化体している以上、敗北はそれを否定されることに他ならず、自らの存在意義を否定することになる、それに対して、勝利は他者のそういったものを否定することがそれとの相対化のなかで自らを肯定することにつながることから、普通人間は勝利を好む。
2.思考のデフレスパイラル(心理学)
自らの存在意義を否定しつづけること、それが完全な勝利である。
そしてそれは完全な勝利であるがゆえに完全な敗北である。自らを肯定することが他者を否定することにつながる限り完全な勝利はありえない、が、自らの存在意義を否定しつづける無限回廊から抜け出すこと(つまり敗北を認めること)は完全な敗北から抜け出す第一歩である。自らを無条件に肯定しつづける限り完全な勝利はない。自らを条件つきで肯定できることが完全な敗北からの脱出を可能にし、従ってそれは勝利につながる。しかし自らを条件付きに肯定するためには一度完全に自己を否定し何を条件として自己を肯定するかということを定義しなおす必要がある。その点完全に自己を否定することは普通自己単独では不可能なので他者の力を借りなければならない。他者を否定することで自己を否定してもらうのである(稀に他者を肯定することによって否定されることもあるが)。しかし、他者の存在意義を完全に否定することは自己を否定するものがなくなることであるからそれによって完全に勝利することができるが、それ以後自らを相対化する客体を喪失し従って自らの存在意義をも失うことから完全な敗北でもある。他者に自己を否定させる余力を残しつつ、他者を否定しなければならない。
この点戦いを挑むなら、自らもそのメソッドによって攻撃されることを覚悟していなくてはならない。そうでなければ待っているのは敗北のみである。ある価値基準において敗北しても他の価値にすりかえることで敗北感を払拭することはできるが、敗北は敗北である。価値をすりかえた勝利を確固たるものにするためには、かつて敗北した価値そのものを後退させみずからが勝利できる価値に取って代わらせなければならない。そのためにはその属性に自らの本質を化体しなければならない。そしてそれは決定的な敗北につながる。その敗北を避ける為には自らの属性とともにそれに化体させた本質をも否定しなければならない。初めに戻る。
3.完全な勝利(政治学)
前項の内容はさておき、思うに勝利という概念は以下のように説明できるだろう。
戦争を行う主体は、パワーの大小などの相違はあるものの同じ種類の国家という主体である。そこで、まず相手に自己を否定させ、その上でその論理を逆に展開すれば相手を滅ぼす論理となる。(パールハーバーしかり)
つまり勝利の概念を追究することは、同時に敗北の概念を追及することに他ならない。
なぜなら、ある勝利を定型的に定義した場合、その勝利したアクターは規模の大小はあれど同じメソッドに基づく脅威によって必ず敗北するからである。
たとえ現実に敗北しなくとも、勝利者は自らがそれまで用いてきた論理によって自らを滅ぼそうとする主体の出現におびえ、疑心暗鬼に陥るなどの精神的な苦痛から逃れることはできない。
それを回避する手段としては、自らが拠って立つ論理を柔軟に変容させ、自らがそれまで用いてきた論理に依る脅威に敗北しない(前述の理由から勝利してしまってはならないという意味で)論理を構築することである。
しかし、自らが拠って立ってきた論理を変更させることは、それまでその論理の恩恵にあずかり将来的にもその論理を拠り所とすることを望んだ他者をある意味で裏切ることになる。それを避けるためにもその論理の変容は柔軟でなければならない。また、この道を選ぶならその勝利者はそれまでの自らの論理によって得た利益・便益をある程度自ら進んで放棄する必要があるだろう。
この点近年のアメリカの核戦略に関するユニラテラリズムの台頭は、現在の便益を維持しつつ決定的な敗北を避けるためのアメリカの自衛的な側面が否めない。そこには外部に対する敗北が自身の存続を困難にするという多民族国家としてのアメリカの性癖が見え隠れしている。
第二次大戦中から続く米ソの対立は、「冷戦」という形の継承によって、実戦にはならないものの、もはや核戦争と呼ぶべき時代を形づくっていると見るべきであろう。その影響を受けていない国家あるいは個人は世界にほとんど存在しないといってよい。
特に、冷戦の論理の最前線すなわち米ソの代理戦争の舞台となった地域や国々においては、もはや自国の歴史を米ソ抜きにしては語れず、従って米ソの顔を窺わないで行動を起こす(つまり米ソに先駆けて行動する)ことに対する戸惑いが国家としての性質(国民性とは異なった、政策決定過程における性質)として固定化されてしまっている。そうした国家にとって米ソの戦略の縮小は、冷戦の論理からある程度解放されることの代償に、自国の存在意義を根本から問い直さなければならないという難題を突きつけられることでもあるのである。
また東側社会主義・共産主義陣営の崩壊は西側資本主義陣営にとって、その国家的な協調や思想的な正当性を証明する客体を失うことにつながっており、従ってそれは資本主義陣営に与する国家のみならず資本主義という思想そのものに対してそれ自身のみで自己を正当化するような論理の確立を要求するものであった。世界中の国家が自らの行動を決定する際に必ず意識してしまうアメリカそれ自身が自己正当化の論理を失ったため、世界は不安定になっている。
現在のアメリカの論理がどこかおかしいにしろ、他に頼るべきそれ以上に主体的なアクターが認められない以上、アメリカの論理に対する賛否を基本として世界の国々は自らの政策を決定せざるをえない。
世界の安定のためには、アメリカが自らの過ちを自ら認めそれを自ら正す力を持つことが必要だと私は考える。そうでなければ、アメリカは良かれ悪しかれアメリカを中心とした世界秩序の変容を止めることはできないだろう。
この点アメリカの対テロ活動は、冷戦後の二極対立を完全に解消しテロという共通の敵を見出しそれをアメリカが盟主としてたたくことでアメリカが完全な主導権を取ろうという意図が感じられる。確かに世界の秩序にとってテロ対策は必要であるが、そのテロを招いたアメリカを中心とした資本主義社会の行動について自己反省を欠いた形でのテロ批判は形骸化する可能性が否定できない。例えば、「アメリカのやっていることはテロではないのか」という批判に今のアメリカが耐えられるだろうか。(この点「テロ」の定義の仕方によってはいくらでも言い逃れはできるが)
もはやアメリカは資本主義社会の盟主としてではなく、単なるいち強国として世界に影響力をもつべきである。アメリカに限らず対外政策は明確な敵がいなければそう簡単に単純化できるものではないが、アメリカが明確な敵を作らなければその論理的正当性が証明できないような論理に基づいている限り、アメリカの敵もまた存在しつづけることは自明である。
”もはや戦後ではない”というフレーズが昭和30年代の日本で叫ばれたが、それを今のアメリカに言ってあげたい気分である。”もはや冷戦後ではない”のである。(この点、冷戦構造そのものが虚構であって冷戦は存在しなかったと論ずることもできるが、本稿では直接関係してこないと思われるので論ずることは避ける)
そこで、次項では自然に”敵”があとをたたない状況における”平和”について考えてみる。