外交史

外交史という授業を取ったわけは、ひとえに以下のような理由である。僕は中学からの内部進学者であり、高校、大学受験を経験していない。他の同年代の友人が受験勉強に追われている間、僕は何をしていたのかというと、自分のやりたいことを追いかけていたのである。

テニス ギター 書道 将棋 料理 歌・・・等々広範な分野にわたって人並み以上(それで満足しているわけではないが)にのめり込みかつ修めていった人並み以上と言える程度に修めてきたいった。

高校の3年間のうち、後半特に興味を持ちこれまで以上にのめり込んだものがあった。

それは、世界史、特に20世紀における国際関係に関する本を読み漁ることだった。

もともと両親とも文系の出であり、また教職であるということもあり、本を読むことに抵抗なく、例えばニーチェやベルクソンに挑んだこともあった。(カント・ハイデガーはその限りではなかったが)

そして、僕は大学生になった。

最初、僕を襲ったのは基礎科目のつまらなさである。

思想・哲学系や歴史系はよかったが教授の言う事をそのまま答案に反映させねばいい評価がもらえない科目の多さに失望を隠せなかった。

履修案内を見ていて目を引いた科目があった。

それこそが“外交史”であった。

しかし、それは2年次からしか取ることができない課目となっていた。ここで一度目の失望感を抱くことになる。取りたい課目を取れない失望である。

しかし、後に僕はさらなる、ある意味決定的ともいえる失望を味わうことになった。

それはテストの成績にあらわれた。

僕は、授業及びテストに対して自分でもおかしいと思うほど真面目に取りくんでいた。

僕は半期で50ページをゆうに超える自筆ノートの要点整理を丹念に行い、およそ完璧であろうと思われる答案を作製していった。

しかし、余計な事に、それを答案に記した後、同じ位の分量自分の考えを書いてしまったのである。

結果は、そうした課目の半分が最低のCであった。それまでの勉強量に自信を持っていた僕は、大きな失望に打ちのめされ、大学は勉強する所であり思索するところでないこと、思索は大学院にでも行ってから始めて(ママ)許されることだということを思い知らされたわけである。

というわけで、後期の授業からは思索を意識的に抑制した。

その結果はやはり成績に現われ、ほぼオールAだったのであった。

というわけで、外交史は純粋に知識の補充のためと割り切って受けているので気が楽であはある。

そこで、外交史の授業にお願いしたコトですが、“専門知識としての外交史”であることを要求したいと思います。

すなわち、教科書に書いてあるような基礎的な知識だけではあき足らない人間の満足できるような授業をお願いします。

テストがどんなに難しくてもかまいません。むしろ難しい方が嬉しいです、

本文中に敬語を欠いて申し訳ありません。コレが正直な気持です。

基本的な知識の補完を目的とした授業をお願いします。

すでに数回の授業を受講していますが、知識レベルとしては少し物足りない程度ですがまあそのくらいが調度よいのでしょう。です。