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恋愛観がほぼ180°変化した。自分を好いてくれるならそれを拒まないというものから、自分が好きでなければ拒んでもいいというものに変わった。これは様々な意味で自分に自信がついたこと、自分の精神の動きがつかめたことが大きい。僕は小さい頃から抱いていた自分の理想像にしばられていて、“唯の高校生じゃない”“若さに甘んじてない”といった自負とその自信を持っていた。
それは“若くない”どころか“年老いた”両親に育てられ、他の同年代の人間とは世代的な隔り(ママ)を感じたこと、またそれによる家庭環境の相違(両親の職業の点でも)による集中力や記憶力のいわゆる英才教育的な扱いによって多少なりともその点に優れていたことを天賦の才と思い込んだ(まあ完全に嘘ではないとは思うが、遺伝的な面とか・・・)ことからくる無条件的優越感が廃他的(ママ)心理を生み、おそらくそれによるものであろういじめによってその心理はさらにゆがみ、そして増大した。
それは恋愛・友情に大きな影響を与えた。同様に廃他的(ママ)又は孤立している人間とのつきあいに限定され、それ以外のいわゆる“若者的”な人間との交遊を持とうとしなかった。
今から思えば、それは自分の容姿や才能に対する自身(ママ)のなさかもしれないが、自分の中身に自信がないことから、さも優れているようなポーズを取ることで自分の卑小なプライドを守り、交遊を持たないことで偶像崇拝的な畏怖を相手に与え自分の真の姿を知られないようにした。
しかし、それはすなわち共通の話題-主にゲームや漫画であるが-がない人間との必然的断絶を生ずるものであった。
これは結論から言えばいわゆる“あがり症”となって発現した。
あがり症はさらなる言語不明瞭を産み(ママ)、それはさらなる廃他的(ママ)心理や被拒絶の肥大につながるという悪循環が発生していた。
しかし、僕はそれを“自己否定”を加え悦に入っていたように思う。
それは勉強の真の目的を見失わせ、友人関係にひずみを生み排他的で自堕落な人生を形成していた。
それが変わったのは眼鏡及び携帯の購入であった。
細かい事ははぶくが、眼鏡は中距離における相手の目を見ながらの会話を可能にし、携帯はその所持を楽しんでいる自分が所謂一つの“高校生”であることを実感させてくれた。
そして、それは廃他的(ママ)心理をほとんど吹き飛ばし、一人の凡百の若者として自分の全力を尽くすという心理を新たに生じさせてくれた。それは容姿にも表れているということを実感した今日この頃である。