EU統合、そして・・




1、序

 2002年1月1日、EUは単一通貨「ユーロ」の市場流通をスタートさせた。

 EUの前身であるECが誕生して約半世紀、ヨーロッパは冷戦の論理などに翻弄されながらも、世界に稀に見る地域統合にある程度成功している。

 そこで本稿は、そのプロセスの契機となったいくつかの計画・組織・できごとについて見ながら、統合を促進した内外の原動力について焦点を当て、統合を支える原理とは何なのかについて考えてみたいと思う。

 その上で、現在進行しているEUの統合についても言及してみたい。



2、シューマン・プラン(ECSC

 1950年5月9日、ロベール・シューマン仏外相は、「フランスとドイツの長年にわたる対立を解消し、両国の石炭および鉄鋼資源を協同の機関の下にプールする」という、いわゆる「シューマン・プラン」を発表した。

 その発案者であるジャン・モネは、「真のヨーロッパ統合はたとえ限られた分野であっても国家主権に対して大胆な取り組み方をしなければ達成できず」、「ヨーロッパは一挙にしてなるものではなく、現実の連帯性を作り出す具体的な業績の積み重ねにより建設される」と考えていたようである。

 そこで、ヨーロッパの中核工業地帯であるルール工業地帯の共有化を目指し、ドイツの潜在的脅威を取り除くための経済連帯構想といった形での、ヨーロッパ協力関係の形成論がおこりフランスの積極的支持の下に、資源の共同管理を主な目的とした欧州石炭鉄鋼共同体(ECSC)が1952年に誕生した。[1]

 ECSCは、シューマン・プランの狙いどおりに、「フランスとドイツの間で如何なる戦争も考えられなくするばかりでなく、物理的にも不可能にする」、いわゆる「不戦共同体」を構築することに成功したといえる。

 それに加えてヨーロッパ原子力共同体(Euratom)・ヨーロッパ経済共同体(EEC)が発足し、1958年のローマ条約の調印を以てEC(ヨーロッパ共同体)が誕生した。

 シューマン・プランは、独仏間の戦争回避という何世紀にも渡って西ヨーロッパの平和を脅かしてきた案件に対する防止措置という形を取ることで特に西ヨーロッパ諸国間の連帯感を高めるという内的な統合への推進力を生み出し、また冷戦の論理の中での結束という外的な統合への推進力を生み出す枠組みが誕生したことを意味するといえよう。



3、マーシャル・プラン

 1947年6月5日、マーシャル米国務長官はハーバード大学で行なった演説の中で、アメリカは世界の経済が正常な健全さを取り戻すためにできる限り援助をするべきであること、経済が健全でなくては政治的安定も平和の確保もあり得ないこと、アメリカの政策は特定の国や主義に反対して行われるものではなく、飢え、貧困、絶望状態ならびに混乱を克服する為のものであると述べ、ヨーロッパ諸国が復興計画を提案する事を求めた。

 この呼び掛けに応えてヨーロッパ側のイニシアチブを取ったのは英仏両外相であった。

 両外相は、すべてのヨーロッパ諸国に対してこの計画を具体化するための国際会議を招集し、その招きに応じて、モロトフ外相率いるソ連をはじめ全ヨーロッパから代表団が集まった。

 しかし、マーシャル・プランへの参加を拒否したソ連は、1949年モスクワで相互援助会議(COMECON)を設置し、加盟国間の貿易発展をはかった。

 結局、1948年4月16日、西ヨーロッパ16カ国は、「ヨーロッパ経済協力に関する条約」に調印し、ヨーロッパ経済協力機構(OEEC)が設立された。OEECは、米国からの資金援助を基礎に産業の復興、貿易の自由化、貨幣の決済・交換性の回復に大きな貢献を成した。

 マーシャル・プランを推進した人びとの意図は、欧州の経済を復興させ、ソ連の影響力の拡大を封じ込め、第三次世界対戦を防止することにあったと言われる。[2]

 ソ連を中心とした共産圏と、アメリカの援助を受ける西ヨーロッパ圏が、欧州の復興という共通目的に対して異なるアプローチを取ることをはっきりさせたという点で、マーシャル・プランは冷戦の加速を決定付けたひとつの要因であると言える。

 と同時に、特に西ヨーロッパ圏についてその経済的な協力体制の基盤を確定させたという点において地域統合を促進させる重要な要因であったということができるだろう。



4、プレヴァン・プラン

 朝鮮戦争の勃発によって、西側に対するソ連の脅威が改めて認識されるようになったため、アチソン米国務長官は西ドイツの再軍備問題を含めた西ヨーロッパの防衛政策の再検討を英仏両外相に正式に依頼した。

 それを受けたルネ・プレヴァン仏外相は、シューマン・プランと同様の枠組みの中で西ドイツの再軍備を可能にする「プレヴァン・プラン」を1950年10月24日、フランス国民議会において発表した。

 プレヴァン・プランを巡る外交交渉は、当初米国がドイツの再軍備を遅滞させる理由から難色を示し、英国も超国家的な機構には参加しないと表明するなど難航したが、結局1952年5月27日、ECSC六カ国は、ヨーロッパ防衛共同体(EDC)条約に調印した。

 同条約は、ドイツ国軍の復活は認めないが、ドイツ人部隊を含めた統一ヨーロッパ軍を編成し、執行機関として超国家的権限をもつ事務局を設置することを主たる内容とするものであった。

 EDC条約はフランス国内の政治的な問題と、スターリンの死去、朝鮮戦争やインドシナ戦争の終結などいわゆる「冷戦の雪解け」の進行によって、西ドイツ再軍備そのものの必要性が疑問視されたことなどを背景として、提案国フランス自身の手によって葬り去られた。

 結局、後にイーデン英外相主導のもと、西ドイツの主権および国軍の復活、WEUNATOへの加盟などを骨子としたパリ協定が調印され、西ドイツの軍事的な扱いは一応の決着を見た。[3]

 EDCはフランス主導のもとで西ドイツの再軍備化をコントロールして、ソ連の脅威に対抗することを目的として発足したが、ソ連の脅威という外的要因に依存しており、その要因が弱まったことでその推進力を失い頓挫してしまった。

 また内的要因たるドイツ軍のコントロールも、ECSCを含むECの成立によってドイツ軍が独自に再軍備して再び戦争がおこる可能性もなく、EDC設立の推進力はもともと弱かったのである。





[1]
公文俊平『国際政治の基礎知識』P.151

[2] 本間長世『国際政治の基礎知識』P.58

[3] 田中俊郎『冷戦期の国際政治』P.54