4/20(月)※1998年

国語の授業の課題に対する批判からの議論展開・派生

S氏の国語において、ムード空間とナルシシズム的個人主義との関係について述べるという課題において、他人の文章を聞いていると空虚感や未熟さ、怒りがこみあげてきた。

そもそも、教科書の題材となっている文章自体が自分を客観的にしか見ない、すなわちナルシシズム的個人主義に対する反対論の正当化が根底にある。

文章を著すということは、自分の思っていることを具体的に形に表現することは、豊富な経験を必要とすることだ。

僕自身のことについても、今現在自分の考えをそのまま表現できない歯がゆさを感じて、経験不足をかみしめている。

しかし、教科書の本文の作者の経験が十分であるかと言えば、誰も保証することができないだろう。また誰もが“No”と言えるものであると思う。

人生においての経験は、死ぬまで完全なものになることはない。

確かに“若い”僕等からすると“大人”である作者の経験の方が豊富であろう。しかし経験が豊富だからといって、作者特有の考え方思想を経験が決定的に足らないことや主体性のないことによって何も考えようとしていない(これに例外はないように思う)僕等に植えつけるのは頂けない。

これは僕の考えすぎかも知れないが、“若者”などといった具体的で露骨な表現を用いているのはそういった誤解をするのも無理もないものだと思う。

極端に言えば作者はこの、表面的で本質的でない“善”を若者に説くことで、(本性的な善・悪は存在しないという見地からするとこの言い方は適当ではないが)逆に本質的な善悪の区別のつかない若者に限らず人間すべてに、それこそ主体性を失わせているということではないだろうか。

―教科書に載っている結論1のような文章にも考えようによっては矛盾を内容している。

僕は、国語の課題のような、今書いているもののような比較的長い記述を書く場合、必ず少なからず矛盾を含んでしまうものになってしまう。

これは一流の哲学者による学術論文には見られない。

矛盾を内包する人間と、その人間の精神を論じていくいのに、矛盾を全く内包せずに完成された哲学というものは全くと言っていいほどない。

これは天才たる哲学者の著した文章であるからだと言ってしまえばそれまでなのだが、僕はこれをこう考える。

つまり、“矛盾を論じることを避け、自分の意見を統一するすなわち矛盾の一方を切り捨てた、又は切り捨てることを余儀なくされた”のではないかと。

これは、僕が色々な文章を読んだり書いたり論じたりしてきて強く感じたのだが、文学者に限らずすべて生きている者は、矛盾の一方を切り捨ててから意見を述べたりしないと、その意見の信頼を得ることができないということがある。

それよりも何よりも、すでに矛盾を内容することやめた(ママ)者達からの“俺たちも捨てたんだからお前も”的な、すなわち能力の画一化の考え方がそこかしこに存在するということである/-結論2


結論1、結論2より導かれることは

    (ⅰ)人間とは矛盾を内容する存在である

    (ⅱ)矛盾の一方を捨てて単純な善悪の判断を見につける(ママ)ことが大人になるということである

  すなわちこのままだと

    “大人”とは人間であるということをやめた者たちである。

    という結論にたどりつてしまうことになう。


このように結論も矛盾したものになってしまったが、この結論に対する貴殿の意見を求める

私が思うに貴殿は自分の意見を構築することではなく他人が構築した意見に反論する形で自分の意見を確立させているようだ

                     by遠山玲央