データ等詳しくはwikipediaを参照して頂くとして、私見を述べる。
以前の記事でも言及したが、非常時に政治的庇護を受けるために権力者と婚約あるいは準婚約関係の外観を呈する事は、政治の被害者を守るという正当目的のもと、およそ許容される。
ただしその実質を備える事は、本来次元の結節であるべき恋愛感情が次元断層として残存する蓋然性が高く、次元断層を生産的に動員できるような関係か、あるいは次元断層を脱構築できるような関係が構築されない限り、将来に渡り禍根として残るであろう。個人的には全くお奨めできない。
そこで問題となるのが、危難が去りたるのちその婚約あるいは準婚約関係を維持あるいは発展させるべきなのかであるが、平時に至ってもそのような関係を維持する事は多くの場合恋愛の政治動員を誘発するため、政治の被害者を保護するという正当目的について合目的的であるとは言い難く、原則として社会的に許容されるべきでないと考える。
ただし、恋愛は基本的にパブリックなものではなくプライベートなものであり、危難に辺り結節点となり平時に次元断層となる事を社会的に強要されたようなパブリックな恋愛も、事後プライベートに特化すれば、社会的に当然に許容され得る。
ただ、危難にパブリックである事を強いられた恋愛感情を、危難の去りたる後ごく私的なものに押さえ込むためには、並大抵の修行では効かない事は論を俟たない。具体的には、危難を論理的あるいは感情的に個人単位で脱構築しその状態を共有する事が必要不可欠だからである。
だから勉強するわけである。
ただ、その状態の共有について念話は便利そうであるが、そのように念話を使う場合においても硬軟に渡る多大な修行が必要であり、とにかく修行するぞ修行するぞ的な冬のお昼時であった。