念話的事実の現実化について


念話的事実は、客観的事実の一つの解釈又は状況分析を集約した状況証拠である。


なんらかの論理を組み立てる上で、状況証拠のみを積み上げて客観的事実と同定するのは、提示された客観的事実と思しき情報全てについて状況証拠ではないかという推定を機能させるという意味で、プロセスを根本的に機能不全に陥らせる危険な思考様式である。


具体的には、念話で決定された事項を法的根拠とする事は、平和的生存権及び大戦抑止に合目的的でない場合は厳に慎まなければならない。


状況証拠に関する解釈は基本的に情報を管理する者に委ねられるが、より強い現実性因子によるロカライズがなければ状況証拠はいつまで経っても状況証拠である。卑近な例で言えば、権力者による追認あるいは容認が伴わない政治的見解は、それそのものとして論理的妥当性を有する事はあるとしても、政治的に肯定される事はまず有り得ない。


そのロカライズが否定すべき現実なのか、肯定すべき現実なのかによって、その事象系のパーソナリティの枠組みが決定される。その解釈も本来的には情報を管理する者に委ねられているが、そのロカライズリアリティが記憶となって現実性因子を減じより強い望み得る現実が現出する事で、その当初のロカライズリアリティは実質的には状況証拠となる。


それらを勘案すれば、念話的事実の存否を確認するオフェンシブなリアリティロカライゼーションについて、制度的に擁護する事は避けるべきだが、容認する事は必要ではないか。


次に、念話的事実の存否を確認するオフェンシブリアリティロカライゼーションについて、その結果生じた事態についていかなる結果責任が生ずるか及びその結果責任を負うべき主体の条件そしてその責任をいかに全うすべきか等について論ずる。


ここで、極論として国際政治おける核戦争の事例を参考としたい。


そもそも念話とは、平和的生存権のオフェンシブな行使形態であるところ、

核戦争が想起されるためには平和的生存権の延長線上に核戦争が対置されるような異常な合理追求型社会的エートスが形成されている必要があるが、そのような状態では政策決定者間の情報インフラが従前に機能していない可能性が想定される。


しかし、そのような場合の究極的な意思疎通のツールとして、平和的生存権のオフェンシブな行使形態であるところの念話が対置されることで、核戦争が抑止されるというメカニズムの機能を期待する事ができる。


思想的・心理的な責任については、政策決定者が大戦抑止という共通認識を形成し、念話による補完を受けた核戦争抑止メカニズムの期待値を増大させる事により、従前とは言いがたいとしても必要最低限の責任は全うする事が出来るであろう。


だが、核戦争の物理的責任を全うした主体は人類史には未だ存在しない上、今後も存在し得ないであろう。実際核戦争が勃発した場合物理的責任を取れる主体は存在しない。


すなわち、核戦争の責任を物理的に全うできる主体など存在し得ないが、核戦争を始める事が許されている主体もまた存在しないのである。


補足するとすれば、そのような主体が存在し得るとすれば唯一刀遣いであろうが、その者が刀遣いであるかどうかを決めるのは最終的には事後の被害者の主観である。しかし核戦争は被害者の事後の主観を想定しない戦争であり、論理的帰結として核戦争は不可能である。


結論として、能動的把持的受動的に構造的暴力を時宜に応じてコントロールする主体による次元断層あるいは次元結節あるいは原始物理的手法による念話的情報の確認が、念話的事実を現実化する上で必要不可欠であると結論する。