昭和天皇裕仁は責任を取らせてもらえないという責任の取り方を強要された稀有な政治家だったかもしれない。
皇太子時代にヨーロッパを歴訪した裕仁はイギリスの立憲君主制すなわち「君臨すれども統治せず」に大きな影響を受けているが、彼自身は堂々と政治をやりたかったのではないか。
二・二六事件で彼の名前で反乱将校に出された詔勅の「いまからでも遅くはないから原隊に帰れ」という文言も、玉音放送における終戦の詔勅も、裕仁の持つ明示的政治力が発揮された数少ない事例であるが、それが布告されたことによって一部の徹底抗戦派を除き全軍がそれに従ったのは事実である。
また、天皇即位時に東宮文官長職を廃止したり、帝国大学教授・美濃部達吉がその学者生命を失う事になった天皇機関説についても「それでいいではないか」と言ったり、A級戦犯の靖国合祀に不快感を示したり、天皇の周りの側近(いわゆる君側の奸)や天皇制に化体して自らの劣情を正当化する連中とは別の認識を持っていたことが伺える。
日本史において天皇が積極的に政治力を発揮した事例は枚挙に暇がないが、それは大概の場合蛮族討伐か国家的規模の変革あるいは政変であった。裕仁が昭和時代にそれら天皇制の宿瘂を相殺する形で積極的に政治力を発揮していれば、あるいは第二次大戦は避けられたかもしれないと某は思うわけである。
彼迪宮裕仁を我が党の政治担当役員に任命し、謹み畏みご冥福をお祈り申し上げる。