ことばを育むために、話しかけるためにある、という石森の信念は一貫している。我々はややもすると審美的にことばを選ぶ傾向があり、文学者は、ことばを肉とする作業より独自の作品世界を創りあげる方向に力を用いてきた。各々の作品世界を支えるのは、行為としての言葉ではなく、審美的に選ばれたことばである。極言すれば、美に奉仕し、抒情を盛りあげるものとして、ことばは磨かれていく。


 もっと豊穣なことばを、と願うものも現れないわけではないが、彼等の目は殆ど一様に、太古に、呪術としてのことばに向けられる。そして、文学の起源ともなった呪術としてのことばを現代に呼び戻そうとする。だが、呪術、呪謡のことばを成りたたせた条件は決定的に失われている。それらのことばは、共同体においての祭り、集合的コミットメントとしての祭りの中に生まれた。作家が独り書斎にあって魔法としてのことばを蘇らせることには所詮無理がある。


石森は、唯美に向かう圧力に抗して、呪術としてのことばに拠らず、かたりかける、生きたことばに新しい内容を盛ろうとした。彼は、まず児童に語りかけた。子供は、まだ柔らかい、溝にはまらない感性をもった聞き手、読み手であって、石森は、その意味でも若いものに希望を繋いだといえる。


ことばといのち〈1〉異郷で読む日本の文学/遠山 清子
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