祝詞・宣明は、祭りと祭りごとのことばである。祝詞は‘神を祭り神に申して人生を祝福する時に唱えることば’(広辞苑)であり、音声と身体的な動きを伴った全人格的言語である。宣明は‘宣読する勅命’(広辞苑)すなわち人々を何らかの行為に赴かせるための宣ぶることばであって、共に後に採録されている。


 古事記も誦習され、書き留められたものである。つまり、人麿以前に、個人の作者が文字によって著した文学作品はないといえる。彼は、ことばが文字となって抽象化される以前、全人格的行為として機能した、言霊の幸(さきわ)ふ時代の終わりを、そして書きことば・文字を模索する時代を生きたのである。文字をもって詩歌を書き留めはじめた時、彼は大きく何かを失ったのであろう。だが、彼はことばが生きていて神に捧げる行為であった時代を、身をもって知っていたのである。


 芥川が、「命と取り換えてもつかまえ」たいと望むべきだったのは「紫色の火花」ではなく、行為となる言葉であった。万葉の時代に戻るすべはない。だが、言葉を行為として捉えること、言葉は宿って肉となるという思想に虚心に触れることはできたはずである。「はじめにことばありき。ことばは神とともにありき。ことばは神なりき。」を審美的に、ただ美しい詩としてしか彼は読めなかった。「唯美のはての生首ひとつ」と詠われた三島と、芥川龍之介とはさほど大きく隔たっていないのである。


ことばといのち〈1〉異郷で読む日本の文学/遠山 清子
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