江戸時代の国学者 本居宣長(もとおりのりなが)の唱える「真心(まごころ)」については、以前こちらこちらに詳しく説明したのですが、先日ある方よりご質問を頂きました。

一読して、内容的にとても重要な質問と感じましたので、それに対するご返答を一つの記事にして、ここに掲載したいと思います。

ちなみに、宣長のいう「真心(まごころ)」は、私たちが普段使っている「あの人は誠意がある」というような、「良い事」において「心がこもっている」、また「一生懸命である」といった意味ではありません。

「真心(まごころ)」の「ま」とは、「真っさら」「真っ白」の「ま」と同じで、生まれたままの、何の混じり気もない状態を表わします。

何の混じり気もない生まれたままの心。それが宣長のいう真心(まごころ)です。

より厳密に言えば、宣長において「真心(まごころ)」とは、「事に触れて動く心」と定義されています。

 

つまり、「うれしい時はうれしい、悲しい時は悲しい、恋しい時は恋しい、さびしい時はさびしい」と、「事に触れてありのままに動く心」のことです。

善悪、利害、イデオロギーなど、一切の既成観念に影響されることなく、物や事に触れて「動く」という心の純粋な機能を、何の障りもなく十二分に働かしている心をいうのです。

そしてこの「真心(まごころ)」は、宣長によれば、「産巣日(むすび)の神」によって、人が誕生するときに、あらかじめ先天的に与えられたものであるとされています。

以上を予備知識として、ご質問の内容にお答えしたいと思います。

 


【ご質問】

1.真心を大切に生きるには

海彦さん、こんにちは(*^_^*)

前回はコメントに対するお返事をありがとうございました。 過去の投稿にコメントさせて頂きすみませんが、今回は真心についてお聞きしたくコメントさせて頂きました。

真心が本来悪いものではないということ。

現代の社会には良い、悪いといった判断基準が蔓延している中、人が人として生きて行く中で、気持ちを大切に生きているのだとしたら、完全な悪に陥ることって、そう無い事ではないかって。 同じ様な事を常々思っておりました。

最近社会を賑わせている、政治家や芸能人のスキャンダルも、文春砲などと言う言葉がブームになり、当然の権利のようにして人のプライバシーを暴き、当人だけではなく家族も巻き込んでしまって…。
    
人を愛する思いの基にあるものは本来、混じり気のない真心のみだと思うのです。

抱いた思いを大切に生きていくこと、そこに漢意などがないのだとすれば、あるものは自分自身に対する責任だけだと思うのです。もしそこに罪悪の思いが生まれるとしたら、それを決して現実の形にしないようにしながら、周りの人への配慮を失わないようにしながら、全て抱えて生きていくこと。
   
真心を大切に生きるという解釈は、以上に書いたことで合っていますでしょうか?

長々と質問してしまってすみませんでした。 まだまだ不勉強で本当にごめんなさいね。

随分と涼しくなりましたので、どうかお身体を大切に、ご自愛下さいね(*^_^*)

 

 

【ご返答】

ご質問ありがとうございます。こういう質問は、私自身、改めて深く考えることにつながりますので、とても勉強になります。

大切なご質問ですので、なるべく噛み砕いて説明したいと思います。

>現代の社会には良い、悪いといった判断基準が蔓延している中、人が人として生きて行く中で、気持ちを大切に生きているのだとしたら、完全な悪に陥ることって、そう無い事ではないかって。 同じ様な事を常々思っておりました。<

おっしゃるとおりです。このことについて、宣長は以下のように言っています。

「世人(よのひと)も亦(また)其(その)如(ごと)くにて、産巣日神(むすびのかみ)の御霊(みたま)によりて、凶悪(まがごと)をきらひて、吉善(よごと)をなすべき物(もの)と生れたれば、誰が教ふとなけれども、おのづからそのわきため(弁別め=わきまえ)はあるものなり。然(しか)れども又(また)其(その)なすわざ、必(かならず)吉善(よごと)のみもえあらず、おのづから凶悪(まがごと)もまじらではえあらぬ、云々」(『古事記伝』)

つまり、人は「産巣日(むすび)の神」の御霊(みたま)によって、生まれながら凶悪(まがごと)を嫌い、吉善(よごと)をなすべきものと生まれているので、誰に教えられなくとも、本質的に善を志向する性質を持つ。しかし、その行いは、善のみではあり得ず、悪も必ず混ざってしまう、それがこの世の実相だというのです。

 

また、次のようにも言います。

 

「そもそも万(よろず)の物(もの)みな、産巣日神(むすびのかみ)の御霊(みたま)によりて成(なる)中(なか)にも、人は殊(こと)なる御霊(みたま)を蒙(こうむり)て生れたる物(もの)にて、鳥虫などとは遥(はるか)に勝(すぐ)れたれば、心も所行(しわざ)も、もとより鳥虫とは遥かに勝れたり。其中(そのなか)には、悪神のしわざによりて、心も所行(しわざ)も鳥虫に劣れる者もなきにはあらねども、悪はつひに善に勝(かた)ず、(中略) 世には物を傷(そこな)ひ他を殺すことを好む人は少なくして、物を育し人を生(いか)さんと思ふ人は多し。」(『くず花』)

ところで上で述べたように、人が「産巣日(むすび)の神」の御霊(みたま)によって、生まれながらに持っている心のことを、「真心(まごころ)」といいます。

 

「真心(まごころ)」とは、何の混じり気もない生まれたままの心のことですから、宣長の上記の言葉に沿って考えると、「真心(まごころ)」自体に、凶悪(まがごと)を嫌い、吉善(よごと)をなすという基本的な性質を有しているということになります。


また「真心(まごころ)」とは、「事に触れてありのままに動く心」ですから、「漢意(からごころ)」というものがありません。これは宣長のいう「“もののあはれ”を知る心」とそのまま通じます。

 

注: “漢意(からごころ)”の詳しい説明は、ここ を参照。

注: “もののあはれ”の詳しい説明は、ここここを参照。

宣長は言います。

「人の情(こころ)のやうを深く思ひしるときは、をのづから世のため人のためにあしき(悪しき)わざはせぬ物也(ものなり)。これ又(また)物のあはれをしらする功徳(くどく)也(なり)。かく人の心をくみてあはれと思ふにつきては、をのづから身のいましめになる事もおほかるべし。」(『石上私淑言』)

【大意】人の情(こころ)の様子を深く思い知るときは、自然と世のため人のために悪い行いはしないものです。これまた、“もののあはれ”をわからせることがもたらす良い結果です。このように人の心を汲んで「あはれ」と思うことに関しては、自然と身の戒(いまし)めになることも多いでしょう。(『石上私淑言』)

「人の哀(あわれ)なる事をみては哀(あわれ)と思ひ、人のよろこぶをききては共によろこぶ、是(これ)すなはち人情にかなふ也(なり)。物の哀(あわれ)をしる也(なり)。人情にかなはず、物の哀(あわれ)をしらぬ人は、人のかなしみをみても何共思はず、人のうれへをききても何共思はぬもの也(なり)。かようの人をあししとし、かの物の哀(あわれ)を見しる人をよしとする也(なり)。」(『紫文要領』)

【大意】人の哀れなる事を見ては哀れと思い、人のよろこぶのを聞いては共によろこぶ、 これすなはち人情にかなうというものです。物の哀れを知るというものです。人情にかなはず物の哀れを知らない人は、人の悲しみを見ても何とも思はず、人の悲しみを聞いても何とも思はないものです。 このような人をよくないとし、その物の哀れを見て知る人をよしとするのです。(『紫文要領』)

すなわち、宣長が「人の哀(あわれ)なる事をみては哀(あわれ)と思ひ、人のよろこぶをききては共によろこぶ、是(これ)すなはち人情にかなふ也(なり)。」というように、このような心こそ「“もののあはれ”を知る心」であり、「真心(まごころ)」なのです。

ですから、人は「真心(まごころ)」に生きるとき、自然と物(モノ)や事(コト)の心を深く感じるようになります。そうなると、他人の気持ちを推し量ることなく、その心を傷つけてまで、自分の思い通りに、自らの欲望の命ずるままに行動するというようなことは、とても少なくなります。

ただし、宣長が「さてこの真心(まごころ)には、智なるもあり、愚なるもあり、巧(たくみ)なるもあり、拙(つたな)きもあり、良きもあり、悪(あし)きもあり」というように、「真心(まごころ)」のままに悪をなす者は、皆無ではありません。

さらに、人だけでなく、神代の神々も、「真心(まごころ)」から善(よ)きこと、悪しきことをなしていたと、宣長は言います。

たとえば、スサノオの命(みこと)の行った悪事などは、「真心(まごころ)」からなした悪しきことのよい例だと思います。

 

スサノオの命は、死んだ母(イザナミ)の国へ行きたいと言って泣き叫び、それによって、緑の山が枯れ、河や海の水が干上がってしまい、世界が危機に瀕します。

 

神代では、悪神でさえ時(とき)に善事を行い、善神でさえ時(とき)に悪事を行う。古事記を読むと、最高の善神である天照大神(あまてらすおおみかみ)ですら、自分の行いを悔い改める神様なのですね。

また、生まれつき根っからの悪神というのもいます。禍津日神(まがつびのかみ)というのがそれです。宣長によれば、世の中に凶悪(まがごと)が起こるのは、すべてこの神が原因だということです。

確かに、この世の実相というものを考えてみれば、人間の理屈を超えた部分があり、善一色に塗りつぶしできるような単純なものではない気がします。

 


>抱いた思いを大切に生きていくこと、そこに漢意などがないのだとすれば、あるものは自分自身に対する責任だけだと思うのです。もしそこに罪悪の思いが生まれるとしたら、それを決して現実の形にしないようにしながら、周りの人への配慮を失わないようにしながら、全て抱えて生きていくこと。真心を大切に生きるという解釈は、以上に書いたことで合っていますでしょうか?<

その解釈で合っていると思います。「真心(まごころ)」というものを、見事にとらえていると思います。

普通、「周りの人への配慮を失わないように」したら、「真心(まごころ)」でなくなってしまうように考えるかもしれませんが、そうではありません。先に述べたように、宣長によれば、他人への思いやり、仲間への配慮なども、人が生まれながらに持っている心なのですね。

宣長は言います。

「世々の儒者(じゅしゃ)、身のまづしく賤(いやし)きをうれへず、とみ栄えをねがはず、よろこばざるを、よき事にすれども、そは人のまことの情(こころ)にあらず。おほくは名をむさぼる、例のいつはり也(なり)。(中略) ことわりならぬ ふるまひをして、あながちにねがはむこそは、あしからめ、ほどほどにつとむべきわざを、いそしくつとめて、なりのぼり、富(トミ)さかえむこそ、父母にも先祖にも、孝行ならめ。身おとろへ家まづしからむは、うへなき不孝にこそ有けれ。」(『玉勝間』)

【大意】「世の儒学者が、身の貧しく賤(いやし)いのを憂えず、富み栄えを願わず、喜ばないのを、立派なことにしていますが、それは人のまことの情(こころ)ではありません。その多くは、功名をむさぼる偽りというものです。(中略)  世の中の道理に外れたふるまいをしてまで、強引に富貴を望むのは、よくないのはもちろんですが、それ相応に勤めるべき仕事を勤勉に勤めて、身を立て出世をして、富み栄えることこそが、父母に対しても先祖に対しても、孝行をしたといえるのではないでしょうか。落ちぶれた境遇になり、家が貧くなってしまうようなことは、この上ない親不孝というものではないでしょうか。」(『玉勝間』)

これは、『玉勝間』の中にある「富貴をねがはざるをよき事にする諭(あげつら)ひ」という題の文章の一文です。

 

儒学者が名声をむさぼるあまり、富貴を願わず喜ばないのを、立派なことにしているが、それは人のまことの情(こころ)、すなわち「真心(まごころ)」ではないと言っています。

また逆に、自分が金持ちになるために、手段を選ばず、他人の不幸も気にかけず、欲望のまま強引に富貴を望むのも、「真心(まごころ)」ではないというのです。

結局のところ、自分ひとりだけが幸せであれば、他人は不幸でよいというような心は、宣長のいう「真心(まごころ)」ではありません。

自分と周りの人が一緒に幸せになるというのが、生まれながらの「真心(まごころ)」なのですね。

人というのは、自分ひとりだけが恵まれていても、周りの人が不幸せであれば、結局のところ、その境遇に満足できず、幸せを感じられないように生まれついているのではないでしょうか。

これは自分が、過去に幸せを感じた瞬間を振りかえったとき、確かにいえることではないかと思います。

物(モノ)や事(コト)に触れて、自然と心が動く。その心は、何ものにも染められていないまっさらな生まれたままの心であり、太古の神々が持っていた心映えと同じのなのです。

人が神代の神々と同様、その心のままに生きるとき、時(とき)にその中に悪しきことが混ざることはあっても、全体として見れば、自分と周りの人々が幸せになる方向に自然と向かうという宣長の主張は、私には強い説得力を持って聞こえてきます。

うまく答えられたかわかりませんが、長くなりましたのでこの辺で。

この度は、大変示唆に富んだご質問をいただき、私の方が啓発されました。心より感謝いたします。