海彦の本居宣長研究ノート「大和心とは」については、こちら から。

それでは、前回説明した、宣長が古事記に記された神々の事跡から見出した三つの妙理(=不可思議なことわり)を土台にして、「宣長が見出したこの世の幸福」について、考えてみたいと思います。

まずこの世は、宣長の言うように、必ず善事に凶事が混ざり、糾(あざな)える縄(なわ)の如く、善事と凶事がかわるがわるやってくる定めですから、宗教などでいう「天国」「極楽」といった絶対的・永久的幸福は、現実としてありえないわけです。

となると、このような形而上的かつ観念的な幸福でなく、必ず善事に凶事が混ざるという事実の下で、幸福というものを考えていくことになります。つまり宣長の考える幸福というのは、観念的なものでなく、あくまで現実的かつ具体的なものなのです。

宣長は言います。

「ひたぶるに大命(おおみこと)をかしこみゐやびまつろひて、おほみうつくしみの御蔭にかくろひて、おのもおのも祖神(おやがみ)を斎祭(いつきまつ)り、ほどほどにあるべぎ限りの業(わざ)をして、穏(おだ)しく楽しく世を渡らふ」(直毘霊)

つまり、「ひたすら天皇のご詔勅(しょうちょく)を敬い従って、そのご慈愛の御かげにつつまれて、誰も彼も祖先である神様を大切に祭りつつ、分相応にできる限りの事をして、穏やかに楽しく世を過ごす」、これこそ、この世における人の生きる道であり、幸せもそこにあるというのです。

注:「天皇のご詔勅(しょうちょく)を敬い従って」というのは、簡単にいえば「世の中の定め(=法律)を守る」ということです。

これまで七回にわたり書いてきた、「この世の天国とは?」という表題に対する答えとして、あまりに当たり前すぎる結論に、拍子抜けされる方もおられるかもしれません。

しかし、この単純な結論に到達し、こう言いきるまでに、宣長が古事記に記された神代の事跡をもとに、いかに深い思索を積み重ねてきたか、そのことに思いを馳せて頂きたいと思います。

そして、結論である「分相応にできる限りの事をして、穏やかに楽しく世を過ごす」というのは、あくまでこの世における「幸せのかたち」に言及したものであり、具体的にどのように生きればよいのか、またその真に意味するところについては、いま一つ定かではありません。

実は宣長は、そこも明らかにしているのですが、それについては、次回に書きたいと思います。