海彦の本居宣長研究ノート「大和心とは」については、こちら から。

前回、宣長が諸宗教の死後の教えを批判する理由について書きましたが、今回は、その批判の背景にある、宣長が古事記の神代篇から見出したこの世の真実、言いかえれば、彼がこの世(世界)をどのようなものとして見ているのかについて書きたいと思います。

・悪神の存在

前述のように宣長は、諸宗教の説く、死後における「天国」や「極楽」といった絶対的、永久的な幸福境を、すべて人間の作りごとであると批判しますが、よく読むと、その批判の焦点は、主として「絶対的、永久的に幸福状態が続く」ということに向けられていることが分かります。

宣長は言います。

「さて世の中にある、大小さまざまのあらゆる事は、天地の間に自然に存在することも、人間の身の上のことも、人のするしわざも、皆ことごとく神の御霊(みたま)により、神の御計らいによるものですが、総じて神には、尊卑・善悪・邪正さまざまあるため、世の中の事も、吉事、慶事ばかりでなく、悪事・凶事も混ざって、国の乱れなども折々は起り、世のため人のために悪い事なども行はれ、また人間の吉凶禍福(かふく)などの、正しい道理に当てはまらないことも多いのですが、これらは皆、悪神のしわざなのです。

悪神というのは、あの伊邪那岐(イザナギ)の大神が禊(みそぎ)をなされたとき、黄泉(よみ)の国の穢(けが)れから出現した、禍津日神(まがつびのかみ)という神の御霊によって、さまざまな横しまな事、悪い事を行う神たちであって、このような神が、盛んにあばれるときには、皇祖神たちの御守りになる御力にも及ぶことが出来ないこともあるのは、これ即ち神代からのありさまなのです。」(玉くしげ)

注:神の御所為(みしわざ)および禍津日神(まがつびのかみ)については、こちら を参照。

ここで宣長は明確に、世の中に生起することは、すべて神の御所為(みしわざ)であり、その神に善悪・邪正さまざまあるため、世の中の事に、善事ばかりでなく、悪事・凶事も必ず混ざってしまうこと。その結果、善人が凶事に見舞われ、悪人が吉事に恵まれるといった道理に合わないことがしばしば起こってしまうが、善神といえども、それを押しとどめることはできないこと。しかも、それは神代からのありさまであり、この世の真実の姿であるということを言っています。

つまり、この世界のどこかに、百パーセント完璧な状態というのが永久に存在するという前提自体、宣長に言わせれば、人間の限られた知恵と願望で作られた観念、すなわち漢意(からごごろ)の産物であり、そのような事実など、実際にはどこにも見い出せないということなのでしょう。

まして、諸宗教の説く「天国」や「極楽」といった絶対的、永久的な幸福境、言いかえれば、“善”だけで塗り固めた世界、一人として不幸な人や悪人がいない世界など、古事記を見ても、神様の世界にすら存在していないものですから、いわんや人間の世界には、この世であろうとあの世であろうと、そのようなものはそもそも存在しえないものなのです。

「少来甚だ仏を好む」と書き残し、若いころ、極楽往生を説く浄土宗の熱心な信者であった宣長が、なぜこうした結論に至ったのか、個人的にとても興味がありますが、それについてはまた別の機会に考えてみたいと思います。

何より、ここで注目してほしいのは、宣長のいう「悪神」の存在です。

実にこの「悪神」の存在こそ、世の中にあらゆる悪事・凶事を生み出し、善事・吉事を永続させない根源なのです。

宣長によるこの「悪神」の発見は、実はとても深い意味を持つものなのですが、長くなりましたので、次回に続きます。