1本目行きます。ようやく、このシリーズ記事を支える基盤が見えます。それで、平常心で行くことが出来る。では。

 

★★★

 “天啓” なんていう言葉は大袈裟な気もします。でも、分かり易く伝えるにはこの言葉良いかなと感じます。

 

●初めのことば──

 

何時ものように、記事を単発で組み立てようと思います。恐らく、計10本ぐらいでしょうか。何時もの、1記事1テーマです。

 

最初に前置きです。

 

私には “あるイメージ” があって、それはこのブログを立ち上げた時から、ずっとあります。

 

でもね、そのイメージというのはかなり厳しいわけです。

 

そのイメージは私が生まれて、ここまで生きて来た事実の経過そのものです。

 

でも、巷にはそんなイメージは全くなくて、何か皆、軽やかに別天地に行けるかのような空気感があって、「実は私には、本当かなー」という気持ちがありました。

 

そんな懸念も、忘れてしまっていたのですが、何やら神様は私に、それを皆に伝えなさいと仰せのようです。重ねて申し添えますが、私には霊能力みたいなモノはありません。

 

ただ、夢とか、シンクロニシティ(synchronicity)。あとは他人の言葉とか、誰にでも日常、常日頃起こっている出来事を、私なりにストーリーとして紐付ける。そんなやり方で虫の知らせ──直観で知るようなことを年がら年中やっています。好きなんだね。そんなのが。

 

“私はαであり、Ωである” という神様の言葉通り、最初の1本目で始まりと終わりを書きます。その後で、どうしてそんな話になったのかを、そこからの数本の記事を使って話します。

 

★★★

1本目は1月25日に見た雲の話です。不思議に感じた雲で、写真に撮っておこうと思って、スマホで撮りました。それが、この写真です。ここを初めの一歩とします。

 

最初の1枚です。

 

 

自宅居間から、北アルプス方向です。最初はこんな形だったんです。何に見えますか? 私は最初、 “竜かな” と、思いました。ある意味、それは当たっていました。ただ、胴体はどうしたのかな、という思いもありました。

 

2枚目を見て下さい。

 

 

形が変わって少し雲が広がっています。この時は鳥の頭かなと思いました。水鳥、白鳥とか── “鶴かな!”と、この時は思いました。

 

写真には撮っていませんが──それ程、意味も感じていなかったし──この1片の雲は風に流され、真っ直ぐになって行きます。直線っぽく。用があって、車を走らせていました。西から東へ向けて。雲も風に乗って、西から東へ流れて行っていました。まだ車窓から、その変形した雲は見えました。

 

私はその真っ直ぐ伸びた雲を見て、今度は “杖だな!” と思ったんです。直ぐに、 “アロンの杖” が思い浮かんで来ました。この時はまだ、この雲のことを重要視していなかったので、アロンの杖とは思ったけれど、アロンの杖が何だったかは調べなかった。これが、先日2022年1月25日の午後のことです。

 

明けて、私はこの雲をもう一度思い出すことになります。1月26日、深夜です。朝、1時か2時。その時間に起きてしまった。相変わらず、スマホを片手に気の向くままにネット界隈です。

 

最終的にこの雲の形は、 “天橋立(あまのはしだて)” である!と、認識するに至ります。

 

そこに至るまでの過程が又、いくつもあって、それは後出の記事にします。

 

取り敢えず、天橋立の写真をネットから見つけて来ました。この雲により近い写真を。

 

 

どうですか? 似てますか?──この後の記事がないと、なかなかそこまでイメージを広げることは出来ないかも知れない。それは後に譲るとして。

 

ここまでαの部分です。

 

ここから、本記事の締め=Ωの部分を結語して、本記事は締めます。

 

あまりに長くなります。

 

 “アロンの杖” です。

 

もうお分かりの方も居ると思う。旧約のモーゼが手にしていた杖です。調べました。映画『十戒』が有名かな。

 

▲モーセが「アロンの杖」を持って、神に祈ると、海が真っ二つに割れ、道ができ、そこをユダヤ人たちが渡って脱出するという話で…しかも、それを追ってきたエジプト軍を海に飲み込んだのです──ネットから引用。

 

出エジプト記ですね。ユダヤの民が、虐げられていたエジプトから脱出する話です。モーゼはアロンの杖を使って、海を二つに切り裂いた。そこを通り、ユダヤの民はエジプトから逃げおおせたという旧約の聖典です。ユダヤの民が渡り切ると、海は再び元の姿に戻り、エジプトの軍は海に飲み込まれた。

 

★★★

 

旧約のこの話は過去の話ではありません。

 

今もその “鋳型がある!” のです──姿形は変わっても。

 

 “神話は時空を超える” ──と言ってもいいかも知れない。

 

★★★

 

 “今回の” 出エジプト記は、こんなシナリオです。

 

まず、アロンの杖──これは “思考を超える” という課題になります。

 

大本の出口なおに初めに降ろされた神示です。

 

最後は、 “神と学との戦い” である。

 

実は、日月神示は──私が感じるに──この1節だけです。

 

この1片がすべてを語ります。

 

他の記述はある意味、不要です。逆に分かりにくくなるかも知れない。

 

とにかく、私に皆に知らせなさい、という神様からの “イメージ” はこれです。

 

この一つだけです。神と学との戦いなんだ!──その御旨だけです。

 

時代は混乱して行きます。あまりに多くの荷を背負いながらの脱出は、負担を強います。ここだけ覚えてください──というより、既に皆さんの心には刻み込まれたでしょう。あるいは皆、最初から知っているかも知れない。意識するか、しないかは別です。

 

神と学との戦い。

 

神──顕在意識では決して捉えられないモノです。思考では無理です。思考を超えます。それが、これから“大峠” を迎える目的になります。

 

 “大峠” を超えると、そこに思考を超えた地平線が広がっています。

 

この大峠は、 “信仰の暗夜” と言った方がピンッと来る方もいるかも知れない。実際、それは信仰の暗夜です。

 

では、その大峠の現実の姿とは── “金融津波” です。

 

津波です。もうその津波は日本においては、30年という長きに渡ってこの国を蹂躙しています。即ち、バブル崩壊の1991年から30年です。

 

津波の引き潮が来ます。即ち、金融引締めという、津波が退く時です。これが “大峠” 、今回の大艱難の現実の姿です。莫大なエネルギーが金融緩和という満ち潮で蓄えられています。それが一気に退く時──引き潮──津波の引き潮が最大の被害をもたらすことになります。

 

本記事はここまでにします。

 

追伸──

もう少し、補完します。信仰の暗夜──否定神学の最右翼、十字架の聖ヨハネの著書に『信仰の暗夜』があります。若い頃、この本に何度も挑戦しました。直ぐに、跳ね返された。今は説明出来ます。

 

 

信仰の暗夜には大きく分けて、2つのプロセスがあります。一つは、能動的暗夜。一つは受動的暗夜です。私がこの記事で扱う “信仰の暗夜” は、後者だなと後で気づきました。それを補完します。アセンションを終えた私たちにとっては、前者の能動的暗夜は終わっています。ここからの大峠=暗夜は、後者です。受動的暗夜。

 

能動的暗夜=人間の側の手に依ります。受動的暗夜=神の御手自ら為される暗夜です。能動的暗夜の時期においては「私(人間)」にもまだ、何かをすることが出来ます。しかし、そこを通過し、後者の暗夜の過程と進んだ魂にはもう、何もすることが出来ません。その領域は “神の領域” です。私たちは、そこに神の手が介在していることすら感じないでしょう。暗夜を抜けた時──そこに絶対的な平安がある。 “神の平安!” とはこの領域を指します。

 

 “神も仏もない!” 領域──受動的暗夜とカトリックの伝承、否定神学が伝えています。

 

そこを抜けた時──そこに大覚醒がある、と私は判じています。

 

話は逸れます。ジェームズ・アレンもこのことを伝えているのだ、と思います。アレンはこう言っています。本は断捨離で手元にない! 

 

「人類の進化の次の段階は、思考を自由自在に使える段階である」と。

 

自由自在──常に乱雑に動こうとする思考を自由にコントロールする、です。

 

前にも書きました。思考を人間の心理面に決して、侵入させないことです。

 

参考記事──

2021.12.14投稿の記事です。赤穂浪士の討ち入りの日──親友の命日だった。(。_。)