頑張って、J. クリシュナムルティの有名な命題を図式化してみました。出来るだけ分かり易いようにしました。

 

畢竟、私自身はクリシュナムルティが言ったことは、この命題一つに集約されている、と考えています。

 

船頭役を務められるのは、論理が追いつくところまでです。最後の壁、扉、大峠を抜けるのにはそれぞれの道があります。それぞれの人生があるように。

 

扉の前までは同じ手法──分析・解析・論理的思考──で行けます。

 

ただ、問題はその先です。体が体得しなければ、何の意味もありません。

 

世界は益々、思考を重視し始めました。AI(人工知能)は思考過程(プロセス)の究極の姿です。およそ生身の人間が追いつくことの出来ない、記憶野と処理速度です。更に並列処理は重層化するでしょう。AIサイボーグは常時、Googleネットワークに接続されています。太刀打ちできない!

 

思考の枠組みを超えなければ、人間はこの地上に不要なものとAIに判断されてしまうかも知れない──レノン・リーさんの指摘の通り。

 

★★★

では、J. クリシュナムルティで「観察するものと観察されるもの」との命題

 

一枚目の図を見てください。「私は車を運転する。」です。

 

 

この時、

 

私≠車

 

となります。

 

注意して欲しいのは、観察するもの(主体)と、観察されるもの(客体)が同じや否や?──この一点だけです。

 

一枚目の図の場合は、運転するもの(私=主体)と車(対象物=客体)が異なっています。なので、この場合には問題は起きません。問題は、二枚目の図です。

 

取り扱う事例が、心理的な問題になった場合です。

 

 

「私は悲しい。」の心理的な事例の場合にはどうなるか?ということです。

 

何故、私たちがクリシュナムルティの説く言明に届かないかと言えば単純に、慣れていないからです。普通の生活をしている人間が、クリシュナムルティのような思考回路を持つはずがありません。この辺が、クリシュナムルティのクリシュナムルティ足る由縁です。

 

行きます。

 

私は悲しい──と言った場合です。

 

 

観察するもの(主体)=「」です。

観察されるもの(客体)=「悲しみ」です。

 

では、この「私」と「悲しみ」が別物ものですか?──というのが核心の問いです。どうでしょう。

 

「私」は “思い” です。

「悲しみ」はどうでしょう? やっぱり、 “悲しいという思い” です。

 

なかなか、納得出来ないかも知れませんが、私という単なる思いが、同じ悲しいという思いを見ていることになります。

 

問題を先に進めます。

 

問題はここから実体化します。

 

私が悲しみを見ているだけで、何もしなければ問題は起きません。スピリチュアル方面の美しい言葉を使えば、 “留まれば” です。

 

ここで、 “私” が、 “悲しみを抱えている私” を何とかしようとすると、無限ループに迷い込んでしまう──ということなのです。

 

図の通り、

 

私=悲しみ

 

です。

 

悲しみを作り出したのは、悲しいと感じている(それを言葉にしてしまった)私です。

 

犯人が、捜査班に加わって、「私が犯人を捕まえます!」と言っているのと同じです。出来るでしょうか? 問題を起こしている本人が、その問題を解決します!──と言っているのです。出来ません。

 

★★★

 

そして、ここからが、分かりにくいところです──つまり、実践の領域に入り、論理の及ぶ範囲を超えた。

 

もし、思考自体が、このすべての過程の空しさに気づけば──思考がこの運動全体の空しさに気づけば、思考は自らその運動を停止します。

 

★★★

クリシュナムルティの言ったことは畢竟、以上です。ここからは、どんなに言葉を費やそうが同じなのです。なので、本稿は締めます。本記事は、本ブログの核心です。シリーズ化します。では、又。