「一語間違えたら死ぬ」と思ってやる

 

すごい言葉ですね。

政治家 小泉進次郎さんの言葉だそうです。

 

一流の人間の言うことはすごい。

年令に関係なく尊敬してしまいます。

 

一流の人物には、14歳の棋士でさえ皆さん敬語を使いますね。

(もっとも本人も常に敬語ですが。)

 

 

所属政党や政策については別として、

私はこの政治家に以前から注目しています。

 

どこか違うな、と思っていましたが、

この言葉を聞いて納得しました。

 

これは、ある方が

「聞いていて心を動かされる話ができるのは何故か?」

という質問をしたところ返ってきた言葉だそうです。

 

私は常々言葉遣いの怖さを経験しています。

昨日もありました。

昼はお寺で。夜は家庭で。

 

お寺は修業の場です。

これを勘違いして、親睦の場だと思っている方がいるようです。

そこで他人の言葉に傷つき嫌な思いを経験をすると、

「学会のほうが良かった。」という思いや言葉が出てくる場合があります。

 

大抵はこれを信心で乗り越えて

本物の法華講員として成長していくのですが、

残念ながら退転していくひともいます。

 

「学会のほうが良かった。」と思うのは魔の囁きです。

人は誰でも過去の多くのことは美化されて記憶に残ります。

昔の学会活動も例外ではありません。

 

また、事実私の場合も良かれ悪しかれ学会時代は楽しいことも多くありました。

学会時代はまだ若かったし、

大勢の仲間と共に活動する歓びも味わったし、

よく飲み会もやりました。

 

なので、なにかあると「学会のほうが良かった。」という気持ち

になることは理解できるつもりです。

 

しかし、ありがたいことに

法華講の信心を永くやり通してきたおかげで

「お寺は修業の場」と捉えて

生涯自分を成長させてくれる場であることが分かるようになりました。

 

 

では、小泉進次郎氏のようにやっているかというと

まだまだ甘い自分自身に気付かされます。

不用意な言葉遣いでどれだけ人を傷つけたり

がっかりさせたりしているか常に反省させられることばかりです。

 

私自身は人から何を言われても、

それに対して怒りの感情や恨みを持ったりすることは殆どありません。

これは、生来の性格ということもあるかもしれませんが、

若い頃から意識してそうなるように鍛えてきたとも言えます。

 

なので、私と違って、

ちょっとした言葉ですぐに怒りの感情や恨みを抱く人に接すると、

驚いたり悲しくなったりすることが普通でした。

 

ところが、つい最近になってようやく

まだまだ私自身の言葉遣いの足りなさがあることに

気づき始めたというのが正直なところです。

 

 

「一語間違える」と相手に誤解を与えてしまう。

「一語間違える」と相手の心を傷つけてしまう。

 

慈悲の心が籠もる言葉を発することができますように。

このように祈っていくことにします。

 

さて、

結論は、

「一語」とは、

「南無妙法蓮華経」

のことですよね。